■エッセイ/ゆーらしあの風■



秋野豊氏の夢を追う−メルマガ「ユーラシア・ウォッチ」スタート (広瀬佳一)


 1998年7月20日、筑波大学助教授であった秋野豊氏は、国連タジキスタン監視団の政務官として活動中に凶弾に倒れた。この事件は、ポスト冷戦期の民族紛争・地域紛争解決が容易でないことを印象づけるとともに、日本人の国際貢献の難しさを浮き彫りにしたので、ご記憶の方も多いだろう。私は、大学院で秋野氏の叱咤激励のもと、博士論文を書き上げた。しかし私にとって秋野氏は、単なる学問上の指導者にとどまらなかった。そのエネルギーに満ちあふれた鮮烈な生きざまには、常に触発され、啓発された。秋野豊ユーラシア基金のメールマガジン創刊にあたり、私はここで秋野豊氏について、少しばかり振り返ってみたい。
  

《三つの顔》
 秋野氏は、三つの異なる顔を持っていた。第一に秋野氏は、学者・歴史家であった。ジャーナリズムに登場する場面が多かったために行動派国際政治学者と見られがちだが、実は外交文書のほこりのなかにまみれて、歴史の息遣いを感じながら史実を織りなす外交史家でもあった。死後に刊行された博士論文『偽りの同盟』(勁草書房)は、第二次世界大戦中のチャーチルとスターリンの息詰まるような駆け引きを緻密に分析した書である。
 第二に秋野氏は、型破りの教育者であった。ゼミでの議論が白熱してくると、深夜遅くまで授業を続行した。また教室のみならず、廊下でも、キャンパスの芝生の上でも、お寿司屋さんでも、どこでも学生と議論をした。秋野氏の教育に対する姿勢は、シラバスにしたがって講義を行い、学生に知識と情報を与えるというだけのものではなかった。むしろ生きざまそのものを真正面からぶつけることで、学生を刺激し、何かを感じ取らせようとした節があった。
 第三に秋野氏は、国際ジャーナリストであった。歴史が大きく変動するうねりを感じとった秋野氏は、1987年くらいから頻繁にソ連、東欧に出かけ、現地でしばしば「自分は国際ジャーナリストだ」と名乗っては、反体制派の知識人やゲリラの幹部などと会っていた。1992年頃からは、その眼差しは本来の専門であるロシア、東欧のみならず、中央アジア、東アジアへも向かった。
「ユーラシア」という視座を持つことの必要性を感じはじめていたのである。その頃書かれた論文は死後に『ユーラシアの世紀』(日本経済新聞社)として刊行された。
 私は、秋野氏がタジキスタン行きを決意したとき、新たな挑戦を試みたのだと思えてならない。平和のための調停者、紛争解決のための実践家を目指したのである。「学者」とか「国際ジャーナリスト」という、いわば国際紛争の傍観者では収まり切らなくなったと言ってよいだろう。

  《夢の継承》
 残された者の課題は、秋野氏の夢をどのように受け継ぐかであった。秋野氏のような人材を育てようというのは並大抵ではない。しかし、秋野氏の精神、考え方を少しでも多くの人に伝え、同じような志を持った若い人々を応援することは、意味があると思われた。
 冷戦が終わり平和に対する期待は大きく高まったにもかかわらず、現実にはバルカン、中東、中央アジアなど各地でかえって紛争が勃発し、多くの犠牲者を生み出している。ところがこうした状況を直視し、紛争現場に根ざした研究を志す人々や国際貢献を行う人々は、日本ではまだ少ないうえに、たとえそういう考えを持っていても、経済的に厳しい環境に置かれているのが実
情だろう。そこで、未亡人である秋野洋子氏と相談しながら、ユーラシア大陸の紛争現場に根ざした形で、紛争解決・安全保障研究を志す若い人々を支援するという目標を掲げ、基金を設立することになった。こうして1999年7月20日、「秋野豊ユーラシア基金」が誕生した。主な事業として、次の三つの柱を定めた。
 1.ユーラシア紛争調査研究プロジェクト「秋野豊賞」
 2.ユーラシア大陸の平和と紛争についての啓蒙・普及活動
 3.国際交流・国際理解教育
このなかでもっとも重要なのが「秋野豊賞」である。これはユーラシア大陸の紛争および安全保障の問題について、海外での調査を踏まえて研究活動を行う熱意を持った人への経済的な支援を行うものである。すでに第4回までが実施されたが、幸いなことに毎回3倍以上の倍率の応募があり、その中から合計で11名の方々に「秋野豊賞」が授与されている。彼ら受賞者は、「サッカーを通したボスニア紛争の予防」、「グルジアの平和構築プロセス」、「タジキスタン紛争に対する国際機関の調停努力」、「イスラエル・パレスチナ紛争の政治分析」など、意欲的なプロジェクトを掲げ、民族紛争、地域紛争の解決に貢献したいという熱意を持って調査・研究に臨んでいる。
 

 今回、創刊することとなったメールマガジン「ユーラシア・ウォッチ」は、上の第二の柱、つまりユーラシアの平和と安全保障への認識を深め、理解を広げるという目的を持っている。登録をしていただいた方々には、秋野豊賞受賞者たちからのフレッシュな情報や、ユーラシアの紛争と安全保障に関する解説、最新の関連文献紹介などを提供していきたいと考えている。末永くお付き合いいただければ幸いである。

(ひろせ よしかず)


穏和なウクライナ人の新しい国づくり(南野大介)

 私は、今年4月までの3年弱を旧ソ連邦から独立したウクライナの首都キエフで過ごしたが、多くの日本人にとってはウクライナがロシアと別の国であるということすらピンと来ないらしい。帰国後、プーチン・ロシア大統領の印象について何度も尋ねられたが、2000年末に記者暗殺事件への関与疑惑で騒がれたクチマ・ウクライナ大統領については殆ど聞かれなかった。
 チェルノブィリ原発や豊かな黒土地帯で知られるウクライナは、かつてロシアに次ぐ旧ソ連邦第2位の産業規模を誇った。独立後は、欧州とロシアの間に横たわる地政学的に重要な位置に誕生した新興国として注目されている。人口、面積ともフランスに匹敵する規模を有する(約5000万人、約60万平米)。しかし、統一国家として独立した経験を殆ど持たないウクライナは、歴史、宗教、文化などの亀裂を抱えたまま独立した。西ウクライナがハプスブルグ帝国領、ポーランド領、そして第二次世界大戦後にソ連邦に併合という歴史を辿ってきたのに対し、東ウクライナは帝政時代からロシアの影響を色濃く受けてきた。クリミア半島は、1956年にフルシチョフ第一書記がウクライナに委譲するまでロシアに属した。歴史的背景に従って、宗教もウクライナ正教、カトリック、両派の折衷と言えるユニエイト(合同教会)など多様性が見られる。言語の点では、公用語のウクライナ語の他、中東部ウクライナの都市部においてウクライナ人の間でもロシア語が広く使われている。
 しかし、緊張を生み出す社会の亀裂は、幸いウクライナの場合、紛争に至らなかった。独立後の10年間は決して平穏であったと言えない。しかし、多くのウクライナ人は、民族や宗教、言語の違いを理由に同じ国民どうしが銃を向け合わなかったことを誇りに思っている。
 亀裂間の調整が最も進んでいるのは、言語の分野であろう。憲法は、公用語であるウクライナ語の他、ロシア語などの使用も自由であると定めている。他方、特定分野におけるウクライナ語の使用を義務付ける法律もある。しかし、社会における現実は法律よりも遥かに先に進んでいる。キエフの街中で見かける言語はウクライナ語が殆どであるが、大多数の人々はロシア語を話している。テレビでは、ウクライナ語放送であってもロシア語でインタヴューに応える人々の発言がそのまま流される。二人の出演者がそれぞれロシア語とウクライナ語を話す番組もある。批判もあるが、両言語の混交も見られ、この「新しい言語」を用いての文学作品すらある。独立直後に見られたウクライナ語使用の強制を主張する政治家や、逆にロシア語の公用語化を訴える政治家はもはや少数である。人々は、言語問題に対し極めて寛容かつ現実的に対応している。
 国家を持たなかったウクライナでは、ロシアのように壮大で帝国的、都会的なエリート文化が育たなかったが、農村を中心とした素朴な生活文化が繁栄した。このような環境のもとで育まれた素朴で穏和なウクライナ人の性格は、過激主義への志向を抑え現実的な対応を促すなどウクライナ社会の統一と安定を支えてきた。暗殺事件関与の疑惑があるクチマ大統領への抗議行動に、民族過激派が前面に出るや否や国民が参加しなくなったのも、ウクライナ人が過激主義を好まないからであると言われている。他方でやや冷めているとも言えるこのウクライナ人の性格は、国家建設と体制転換の時期に不可欠な「力強さ」に欠ける面もある。紛争は起こらなかったが、改革成果の点で他の中東欧諸国やロシアに比べ遅れをとっている感が否めない。
 今年3月に行われた最高会議選挙では、ユーシェンコ前首相とティモシェンコ前副首相という二人の改革志向の政治家が注目された。ユーシェンコ派は疑惑のあるクチマ大統領と真っ向からは対抗せず大統領支持派も巻き込む形で選挙戦に臨んだのに対し、ティモシェンコ派はクチマ大統領や既存の利権の温存を図る勢力と全面的に対決する姿勢を取った。この二人のうちウクライナ人の間で高い人気を得たのは、ユーシェンコである。彼の人気の背景は、穏和な雰囲気と農村生活を好む人柄である。他方、不死鳥の異名を持つ女性政治家ティモシェンコの対決姿勢は、多くのウクライナ人の目には過激であると映った。ユーシェンコは、選挙の結果ある程度の躍進を見せ、次期大統領候補とも目されている。しかし、ユーシェンコは相変わらずクチマ大統領の意向の範囲内でしか行動できず、新しい改革派の指導者としてリーダーシップを発揮できないでいる。つまり、穏和な性格ゆえにカリスマ的存在となったが、同時にその性格ゆえに改革をリードする指導者になりきれないでいる。
 「ソ連邦第二の共和国」から「欧州の普通の国」への移行を目指しているウクライナは、古き悪しき習慣を改め、欧州標準の制度を確立していかねばならない。そのためには、安定要因である「穏和さ」に加え、改革を進める「大胆な行動力」も必要となってくるであろう。独立後10年間の成果が国家の統一を保ち独立を定着させたことであるとすれば、次の10年の課題はいかに改革を力強く実行するかである。穏和な性格を好むウクライナ人が、どのように体制転換を進めていくのか今後も注目していきたい。

(みなみの だいすけ)


東ティモールの歩き方(上杉勇司)

 21世紀最初の独立国となった東ティモールへ出かけてみてはどうだろうか。東ティモールは、既製品の国家しか知らない高度成長期以降に育った若者には特にお勧めである。なぜならば、東ティモールに行けば国家建設という壮大なプロジェクトを体感できるからだ。まだまだ観光客は少ないが、穴場的な観光スポットはいくつかあるし、日本食のレストランだってある。日本の帝国ホテルとは無関係であるようだが、ディリ市内の帝国ホテル(Imperial Hotel & Res-taurant)に行けば、刺身、寿司、てんぷら、といった海外の日本食レストランの定番はもちろん、うな重や梅茶漬けまでそろっている。日本食以外にも東ティモールの首都ディリには、同地で働く国連職員や援助団体職員を目当てに、インドネシア料理、ポルトガル料理、オーストラリア料理、中華料理の店が並び、滞在中はバラエティーに富んだ食生活を送ることも可能だ。その中でも一番のお勧めは地鶏のフライドチキン。これは地元の人々が行くような食堂に行けば食べられる。青い空の下を自由に走り回っている地鶏だから肉付きは少々物足りないが、身は締まっていて臭みがなく、本当においしい。飲み物で勧めなのが、サニーデライトという名のフルーツ系ミルクシェイク。これは、パパイヤ、マンゴー、バナナなどのトロピカルフルーツとバニラ・アイスをミキサーでシェイクしたもので、ホテル・ドゥアリブ(Hotel 2000)のレストランで手に入る。40度近くになる炎天下で作業(観光)した後に飲むと格別においしい。ビールやアルコール飲料が苦手な方にお勧めです。


 昨年、東ティモールを訪れた際には西ティモールとの国境に位置するコバリマ県スアイに滞在したが、そのときには地元の農家の家に下宿させてもらった。その農家の庭先には、多数の鶏をはじめ豚や牛が飼われていて、その中から毎晩の食卓のおかずが提供されていた。私が滞在した時期が交尾の時期と重なったのか否かは不明であるが、深夜まで凄まじい豚の交尾が庭先で繰り広げられ、言語に絶する豚の呻き声でなかなか寝付けない経験をした。豚が精根尽きて静かになり、ようやく眠れると安堵するころに、今度は近辺の鶏が鋭い声で朝を告げ、鶏の大合唱が始まった。それが終わると次は犬の遠吠えが始まり、しばらくすると農家の奥さんが朝食の準備を始める時間になった。寝不足で苦情を言いたいところだが、地方の農家が元気の良い家畜を多く持てるようになったということは、東ティモールも平和を享受しつつある兆候だろう。東ティモール大統領のシャナナ・グスマン氏とは、今年の2月にカンボディアで行われた地方議会選挙の監視活動に一緒に参加したことがあり、4月の大統領選挙の監視のために私が東ティモールを訪れた際には、約1時間に渡り時間を割いてくれた。彼とは東ティモールの将来について意見交換をしたが、その
中で強く感じたことは、東ティモールの国造りに際して、日本の支援を期待しているということだ。グスマン氏は、道路の補修や配電施設の完備などのインフラ整備を日本に期待しているが、それだけでなく、民主的な法制度の確立に際しての助言を求めたり、地域社会の活性化における青年の役割などについても日本から学ぼうといった姿勢が見られたりした。また、グスマン氏は、沖縄県が戦後復興時に実施した公衆衛生保健婦制度についても強い関心を寄せていた。この時にグスマン氏と交わした約束を果たすために、今年の11月には東ティモールの青年団約20名を沖縄に招聘して、青年指導者の育成に関して交流を行う予定である。

 ところで、東ティモールへのアクセスはインドネシアのバリ島を経由する方法が一番簡単である。バリ島からディリまではメルパチ航空が1日2便飛んでいる。もちろんバリ島からは西ティモールのクパンまで飛んで、陸路で東ティモール入りする手もあるが、西ティモール内にある東ティモール人難民キャンプを見られる以外にはあまりメリットはない。メルパチ航空のバリ―ディリ間の往復料金は、日本で予約すると5〜6万円くらいするが、バリ島で購入すると$240で済む。時間に余裕がある場合には、バリで購入することをお勧めする。帰国する際に注意することは、帰国便のリコンファームを必ずすることだろう。メルパチ航空は予約の入れ忘れやダブルブッキングなどが日常茶飯事のように発生するので、ディリのコモロ空港のメルパチ航空の事務所まで足を運び、自分の名前が記載された予約確認券をしっかりと受け取るようにしよう。

(うえすぎ・ゆうじ)


統一に向けての地道な努力―韓国の「ハナ院」と「北韓大学院」(道下徳成)
 
  韓国の金大中政権は、一般にもたれているイメージとは異なり、南北の早期統一には消極的であった。過去5年間の韓国の政策は、「平和共存」を優先して、「統一」は先送りしようというものであった。こうした流れの中で、現在の韓国では、「統一」そのものより、「統一プロセスのマネージメント」や「(かなり先の)統一への準備」に関心が移ってきた。今回は、2001年11月までの1年間の韓国滞在の経験をふまえて、これらの課題について地道な努力を行っている「ハナ院」と「北韓大学院」を紹介する。
 「ハナ院」(正式名称―北韓離脱住民定着支援事務所)は、北朝鮮から亡命してきた、いわゆる「脱北者」を韓国社会での生活に適応させるための再教育施設である。統一部が運営する本施設は、1999年7月にソウル郊外に開設され、現在は150名程度の脱北者を受け入れる体制を整えている(通常2〜3カ月の教育を受けるため、年間では800名程度を受け入れ可能)。その教育内容は、?北朝鮮からの脱出や、第3国での逃避生活による心理的不安と、民主主義・市場経済体制への適応不全の解消、?言語、思考、生活習慣などの違いによる違和感の解消、?新しい生活のための実地見学、進路指導、?運転、コンピュータの使用、料理、裁縫などの基礎的職業訓練などである。これに加え、民間との協力体制も強化しつつあり、一般の韓国人とともに実地見学・観光を行うなどのプログラムも推進されている。
 ハナ院で教育を受けたのち、脱北者たちは、それぞれ指定された都市にアパートなどを与えられ、そこに住むことになる。しかし、多くの脱北者たちはソウル以外の都市に割り当てられることを嫌がる。これは、北朝鮮では首都ピョンヤンの生活水準が他の都市に較べて飛び抜けて高いため、脱北者の多くは「ソウルは天国、それ以外は地獄」と勝手に想像してしまうからである。ただ、この問題は、実際に地方で生活してみると北朝鮮よりもはるかに生活水準が高いことが判明するため早晩解決する。しかし、より重要な問題は、やはり言葉や就職である。北朝鮮の方言は独特であるため、脱北者が話すと、同じ言葉であるにもかからわず韓国人は違和感を感じてしまい、悪くすれば冷たい反応をみせる。このため、人間関係がうまくいかず、脱北者たちは孤独感を味わうことになる。また、ただでさえ就職難の韓国にあって、脱北者が就職することは至難の業である。そして、たとえ就職できても単純労働になることが多いのである。
 私がハナ院で知り合った脱北者のなかには、「ピョンヤンはきれいで整然としているのに、ソウルは汚く雑然としている」と感じたり、「韓国では、人々が金儲けのために、休む暇もなく朝から晩まで働き続けている」とぼやいている者もいた。こうした感覚は、我々には少々意外に感じられるが、些細なこととはいえ、脱北者にとっては心理的負担であろう。
 脱北者の韓国への流入は、脱北者自身、そして韓国社会にとって新たな課題を生み出している。そして、90年には9名に過ぎなかった韓国への入国者数が、98年には72名、99年には148名、2000年には312名、2001年には583名と増加している趨勢からみて、今後も、この問題は重要性を増していくであろう。韓国側にしてみれば、脱北者の受け入れ、そして統一への準備は、すでに政府だけで対応できる問題ではなくなっている。それは、韓国社会が全体として取り組まなくてはならない課題なのである。
 そこで注目されるのが、慶南大学附属の「北韓大学院」である。北韓大学院は、ソウルの中心部に位置し、北朝鮮問題を専門とする大学院であり、私が客員研究員をつとめていた極東問題研究所に併設されている。1998年3月に開学した北韓大学院には、現在、約200名の学生(修士・博士課程)が在学中であり、「北韓政治論」「北韓産業構造研究」「北韓の医療システム」「北韓の言語生活」「南北韓社会統合論」など、政治・経済・社会・文化、そして統一問題など、多岐にわたる課目を受講している。北韓大学院で学ぶ学生は、新卒者だけでなく、ジャーナリスト、会社員、市民団体職員、医者、軍人など、多様な顔ぶれである。彼らは卒業後、社会各層のリーダーとして、脱北者受け入れや統一に対応するための社会的基盤を形成することになるのである。また、特筆すべきは、数名の脱北者が学生として、この大学院に在籍していることである。私自身も韓国滞在中に、「北韓政治論」と「北韓軍事論」を受講したのだが、講義の途中で一人の学生が「私の場合は〜でした」という発言をするので、何を言っているのか不可解に思ったが、後で聞いてみると彼は脱北者だったのである。彼らの存在によって、北韓大学院での教育は、極めて現実的かつ実質的なものとなっていた。
 韓国政府は、北朝鮮との関係に配慮して、韓国で進められている「統一プロセスのマネージメント」「統一への準備」を喧伝するのを控えている。しかし、それは韓国が統一への準備を怠っていることを意味するものではない。朝鮮半島が統一することになった場合、大きい影響を受けるであろう日本としても、こうした韓国の地道な努力に関心を払っておくべきであろう。

(みちした なるしげ)


私のアフガンストップ・ギャップ体験記−もう一つの文化メガネ−(金敬黙)


ストップ・ギャップの旅へ
 私は去る5月21日から6月2日までパキスタンのペシャワル経由でアフガニスタンのジャララバードに滞在した。ストップ・ギャップが私の任務であった。「何だそれ?」と思われる方のために簡単に説明しよう。ストップ・ギャップとは「臨時(の)」「穴埋め(の)」という意味の英語である。国際機関やNGOで使われる時は、本来のスタッフやチームの代わりにその任務につくということになる。ジャララバードでの私の任務とは現地の国内避難民のため緊急医療支援を展開しているJVCアフガニスタンのコーディネーター役を10日間程務めることであった。
 「何故、そんな遠くまでわざわざ日本から行く必要があるのか?」という疑問を抱かれる人もいるだろう。それに関するこたえはもちろん幾つもある。?東京ベースの人が現場の活動状況を直接視察する、?テレビや新聞で報道されないアフガニスタンの現状を日本社会に伝える、?今後の活動方針を検討する為に多くの人が現場感覚を共有しておくなどの理由があげられる。
 しかし、今回の渡航には、他の現場ではなかなか見られないもう一つの目的が存在していた。それは、現地の医療活動を支える看護師(日本人女性)と常に同行しながら一種のボディーガード的な役割を果たすということも含まれていたのである。たとえ10日間であってもストップ・ギャップは必要であるという組織の決定による渡航であった。
 言い換えると、私が現地に向かうことになった理由としてスタッフのセキュリティ保護という危機管理の目的が大きかったともいえよう。「やっぱり、イスラムはなあ〜」と思われるかもしれない。今日私がこの話題をあえて取り上げた理由は、「イスラム社会=女性蔑視」という既存の固定観念を壊したいと真剣に思ったからである。

異文化を理解するもう一つのメガネ 
  非イスラム文化、特に欧米的価値のメガネをかけてイスラムを覗くと、現地社会は異様に映り、早急な変化が求められるに違いない。だが、罪深い男性である私が、慎重に、また誤解のないようにここで述べたいことは、変化は外部の主観を押し付ければ良しという訳ではなく、その社会に暮らす人々のニーズと努力が伴うべきであるということである。
 「そんな方法ではいつまでもこの世の男尊女卑的構造は変わらない」と思う方も少なくないと信じる。優位な位置を享受する男性がそんな変化を歓迎するはずがないという論拠だろう。私も以前はそう思っていたし、ここで男性の罪を曖昧にしようとする訳でもない。むしろ、問題の本質に迫ろうと考えているのである。
 現地の人々の暮らしを見る中、私にはアフガンの男性が加害者であると同時に被害者でもあるように思えた。このような思考の変化が生じた背景には、女性はもちろん男性たちもがイスラム文化によって日常生活の不自由を感じていることを知ったからである。たとえば、夫婦、家族以外の男女が隣に座ることはアフガニスタンでは難しい。そのため、現地の人々は車に乗る前に座席の配置を色々と工夫してから車に乗らなければいけない。男女の自然なコンタクトが制限されることによって、女性のみならず男性側も不自由な環境におかれているのである。私はこれに関する質問を現地での同居人二人に聞いてみた。
「不便ではあるがコーランの教えに従うだけ」、という返事が返ってきた。
「日本では問題がないのか?」という彼らの好奇心満ちた質問に、私が暮らす社会でも日常的にこの種の問題が頻繁に起きているということを反省せざるを得なかった。
 私はジャララバードに滞在する間、事務所を兼ねた住宅に暮らす現地スタッフ二人と色々な話をすることができた。日本の文化、自殺、犯罪、学級崩壊、ホームレスなどについても話した。そんな彼らから「日本人は勤勉だからホームレスがアフガンにくればきっと仕事は見つかるぞ!」というアドバイスもいただいた。一夫多妻制についても色々話したし、大家族が一般的なアフガン家庭の部屋の配置等についても教えてもらった。その一方、私が話した日本社会で起きている犯罪や自殺などについて彼らは最後まであまり理解できなかったようである。「それは不思議だなあ〜」という意見の繰り返しであった。彼らにとって日本社会は理想郷であったはずだからであろう。
 文化についてアフガニスタンは私に三つの教訓を与えてくれた。一つは、社会の変化は構成員自らの努力によるべきであるということ、もう一つは、私が暮らす社会にもアフガニスタンと同じような問題が今でもあるということである。さらに、異文化は教えるものでなく理解するものであるということを学んだ。そんなことを思いつつ、私はジャララバードを後にした。次回の訪問が楽しみである。   

               (キム ギョンムク)


チップのユーロ・レート(大黒太郎)

 大晦日を静かに迎える、というのは日本人だけなのだろうか?
 ここ数年、僕が大晦日を迎えるのはいつもドイツ国内だった。ドイツのニュース専門チャンネルn-tvは、東から順番に新年を迎える世界の大都市を中継しながらドイツの大晦日の夜を盛り上げる。真っ先にテレビに映し出されるのはオーストラリア、メルボルンの新年である。メルボルンから流れてくる映像は、数え切れないほどの花火と紙ふぶき、そして騒がしい音楽で満ち溢れた町である。一時間の時差でメルボルンに続いて映し出されるのは東京だ。新年を迎える東京市民と新年の喜びやバカ騒ぎをテレビを通じて共有しようと期待するドイツ人に毎年きまってn-tvが映し出すのは、無情にも鐘の音が響く静かな寺の風景
である。ここで毎年、ドイツ人の友人がきまって驚く。「みんな嬉しくないのか?」――これが僕の新年の恒例行事になっている。
 2002年1月1日零時、僕はフランクフルトに近いラーン川沿いの小さな都市、マールブルクで、信じられないくらいの寒さと毎年のようにけが人が続出する爆竹の音に震えながら、大勢の人たちとともに銀行のATMの前に並んでいた。そう、この時間を期してドイツで新通貨「ユーロ」が市中への正式流通を始め、ドイツ各地では24時間稼動する銀行のATMの前にはユーロ紙幣を手にしようと人だかりができていたのである。だがこの時、外国人である僕はもちろんのこと、また花火と爆竹にビールが加わって正月気分に浮かれたドイツの人々も、ユーロの導入を原因とする頭痛に見舞われるという近未来を予測できなかった。
 ユーロがドイツ人にもたらした頭痛の原因――それはチップの支払い問題だ。たとえば、ドイツ・マルク時代、ベルリンのコーヒーの相場は2マルク50ペニヒ、喫茶店で腰を下ろして飲んだ場合には、これに50ペニヒ程度のチップを加え3マルク支払う、というのが大体の習慣だった。ユーロの導入によって1ユーロ=約2マルクとなった現在、ベルリンでのコーヒー1杯の値段は1ユーロ50セントが相場である。さて、ここで直面するのがチップをいくら払うのか?という大問題である。これまでのやり方、すなわち、マルク以下の単位であるペニヒを繰り上げて全てマルク単位で支払うという計算式を踏襲し、コー
ヒー代に50セントのチップを加えて2ユーロを支払うのなら従業員にスマートな対応ができるというものだろう。しかし、実際のところ50セントとは1マルクのことである。これはマルク時代の倍のチップだ。ユーロの導入とともに便乗値上げをされた上に、これまでの倍ものチップを払わされるのではかなわない。だからといって、チップ25セント(50ペニヒ)を加えた1ユーロ75セントの支払というのは、いくら何でも半端すぎてケチな印象を伴ってしまう。払い過ぎれば従業員には喜ばれるだろうが、少なすぎれば露骨にいやな顔をされてしまう。ではどうすればいいというのか?多くのドイツ人はおそらくみんな、2002年の初めに同じ問題に直面し、支払の際に迷ったはずだ。
 今から考えると、ドイツ・マルクはチップの支払いに関して魔法のような通貨だった。端数を切り上げて支払を済ませればチップ問題は全て解決していたからである。チップのユーロ・レートはやっかいな問題を引き起こしたのだ。50ペニヒというマルク以下の単位に伴っていたけちな印象は、ユーロが導入されてペニヒがセントに取って代わったからといって一掃されるわけではない。しかし、50セントは1マルクのことではないか!
 時間とともにドイツ人もユーロ導入とともにやってきた頭痛の種を解消する秘策を見出していくのだろう。年明け後すぐに日本に戻ってしまった僕は、ドイツ人が編み出したであろう解決策をまだ知らない。ドイツ人がチップに対して寛大になってこれまでの倍を支払うようになっているのか、それともセント硬貨での支払いに伴うケチな印象に慣れてしまい気まずい思いすらしないようになったのか?今年もまた近づいてきた年越しのドイツ旅行で確かめてみたいと思っている。
                        

(だいこく たろう)


サラエヴォ食べ歩き案内(久保慶一)


 旅の醍醐味はなんといっても食だよ、という読者の方は少なくないのではなかろうか。その土地にしかない料理を味わうことは、旅先の文化に直に触れる最良の方法だと思う。「よく食べ、よく飲む」。これは秋野賞受賞者に7月の授賞式で言い渡された使命であった。今回は、読者のみなさんがいつかサラエヴォに行かれる際の(?)食べ歩き案内として、この「もう一つの現地調査」の一部をお送りしようと思う。
「チェバピ食べた?」
 ユーゴの友人に「サラエヴォに行ってきた」というと必ずのようにきかれる質問だ。サラエヴォといえばチェバピ、チェバピといえばサラエヴォ。それほどサラエヴォのチェバピは美味で知られている。チェバピとは牛肉をソーセージ状に丸めて焼いたもので、普通は刻んだたまねぎと一緒に出てくる。口に運ぶとプリプリとした弾力のある食感。パンと一緒に食べるのが一般的で、地
人の間ではファーストフード的な位置づけだ。これは昼食に、ぜひ一度はサラエヴォで食べたい。 ファーストフードといえば、ボシュニャク人(ムスリム)はあんなにアメリカ贔屓なのに、サラエヴォにはマクドナルドがまだない。サラエヴォ市内に出
店したら、彼らはきっと喜んで行くだろうに……
 「サルマ」はバルカン地域の代表的な郷土料理で、当然ボスニアにもある。肉に米などを混ぜて団子状にし、野菜でくるんで煮込んだ料理だ。何肉を使うか、何の野菜を使うかは土地によって違う。サラエヴォ市内で食べればまず牛肉だろう。外はブドウの葉を使うものが多いが、これはヘルツェゴヴィナ地方(モスタルを中心とする地域)に特徴的だという。僕が「サルマ」に初めて出会ったのはベオグラードで、そこでの「サルマ」は豚肉を使いキャベツで巻いていて、「かなり重たいロールキャベツ」のような印象だったのだが、サラエヴォの「サルマ」は全然違った。現地の人と知り合って家に招かれたら、その家ならではの手作りサルマが出てくることだろう。皆さんはどんな「サルマ」に出会うだろうか。
 レストランに入ったら、メインディッシュの前にぜひ試していただきたいのが「チョルバ」。肉と野菜を長時間じっくりと煮込んで作ったこってり味のスープの総称で、澄んださらさらのスープとは区別される。しっかりした味付けの好きな人ならきっと気に入っていただけると思う。ボスニア名物のベゴヴァ・チョルバは「ベグのチョルバ」(ベグはオスマン帝国時代の上官/封建領主/名士の呼称)という意味で、「一番豊かなチョルバ」というニュアンスがあり、その名の通り肉と野菜がふんだんに使われいて美味しい。しかし僕が一番好きなのはテレチャ・チョルバで、これは「仔牛肉のチョルバ」の意。あまりに気に入ったのでサラエヴォの大家さんから作り方を習い、必要な香辛料も買ってきたが、帰国後のバタバタでまだサラエヴォ仕込みの腕は試していない。さてその後のメイン・ディッシュはたいていの場合色々な肉を使ったバーベキュー料理。スープ、サラダ、メインと食べれば満腹になること間違いなしだ。
 メインに肉料理は重すぎるというなら、ボスニアを代表する郷土料理の一つ「ボサンスキ・ローナッツ」などはいかがだろう。これは「ボスニアの壺」という意味で、たぶん壺に肉や野菜、じゃがいもなどを入れて煮込んだところから来ているのだろう。普通のレストランだと何の変哲もない皿に盛られて出てくるが、サラエヴォ市内、内戦中に破壊された有名な国立図書館から川を挟んで向かいにある郷土料理レストラン「イナト・クーチャ」なら、本当に小さな壺に入って出てくる。見かけだけでなく、ここのローナッツは他のところよりもずっと美味。かくいう僕は第一回秋野豊賞受賞者の森田太郎君に教わって行ったのだが、雰囲気も良いのでオススメである。食後にトルコ式の煮出したコーヒー「ドマチャ・カーファ」を頼めば、伝統的なコーヒーセットに小さなお菓子を添えて持ってくる。器が気に入ったら、歴史の匂いをかぎながらバシュチャルシアを歩いて、カン、カンと金属を打つ音のするほうに行ってみよう。きらびやかなコーヒーセットや小物入れ、お盆や壁に飾るお皿など、さまざまな金属細工の土産物を並べる店に出会うはずだ。
 ボスニアはお酒も美味しい。一番のお薦めはもちろんラキヤ。この澄んだ蒸留酒の原料となるのは、梅や葡萄などの果物だ。度数は40-60%と強いが、口に含んだときに広がる芳醇な香りが素晴らしい。ボスニアでは多くの人が自家製のラキヤ(ドマチャ・ラキヤ)を持っていて、これはとくに質が良いことが多いので、味とともに香りをぜひ堪能してほしい。ボスニアの(赤)ワインならディンガッチなど、ヘルツェゴヴィナ産のものがお薦めだ。
 そろそろ与えられた字数を使い尽くしたようだ。ちょっと駆け足気味の紹介になってしまったが、ボスニアに立ち寄られることがあったら一つでも思い出して試していただき、ボスニアの文化に触れていただければ、望外の喜びである。バルカン地域の食に関する研究は今後も続けていきたい。研究成果は、現地調査「裏」報告第二号(?)として、このメルマガにお送りできればと思っている。            

         (くぼ けいいち)


ドイツのクリスマス市 (山川和彦)


 曇天が続く寒いドイツの冬。この冬の風物詩の一つがクリスマス市だ。これは、待降節(アドヴェント)とともに開催される「市」で、開催期間がわずか数日のものまで入れると、ドイツでは千以上のクリスマス市が開催されている。もともと聖ニコラウスの祝日(12月6日)に教会近くで開催された市が、今日のクリスマス市の原型と考えられている。本来の性格からすれば、防寒具や陶器など生活必需品が売買される年市ということになるが、今日のクリスマス市は、随分と様相が違う。クリスマス用品、菓子、玩具、キャンドル・アロマオイル、アクセサリーなどが定番商品で、変わり種賭しては盆栽が売られている市もあった。旧市街の広場といえば、中世以来「市」が立ってきた空間であり、その点からすると、今日のクリスマス市は「市の復興」現象と解釈できるわけだが、とりわけ大都市で行われる市は、観光客の誘致を意識したイベント的な色彩が強い。
 さて、クリスマス市の楽しみは、なんと言っても食べ歩きだ。大方どこの市をみても、人でごった返しているところには、白い煙が立ち昇っている。「煙立つところにソーセージあり」ってことだ。犬歯が焦げた薄皮を破く快音、やはり本場ドイツだ。チューリンガーと呼ばれる太目で20センチほどのソーセ−ジは人気の逸品。日本人からの旅行者も多いニュルンベルクでは、ニュルンベルガーと呼ばれる10センチ程度のソーセージ3本を、プチパンにはさんでくれる。ミュンヘンでは、焼きソーセージ4本にザウアークラウト、パンがセットになって600円ほど。
 クリスマス市の食はソーセージだけではない。うまかったものを厳選して思い出してみると、エアフルトのキノコ鍋。直径2メーターはある大きなプライパンに、これまた大きなシャンピニオンを山のように積んでいる。火が通ると他の具材と一緒にいいだしが出てくる。視線を背中に感じつつも、皿に残った汁まで飲み干し、挙句の果てに、帰り際にもう一皿食べてしまった。フランクフルトでは臓物(ドイツ語からすると腎臓)の煮込み、地元の人たちにならってフライドポテトの上にそれをかけてもらう。うまみを吸ったポテトがこれまたうまい(尿酸値が気になるが・・・)。
 オーストリアでは、ソーセージにかわってジャガイモの方が目立ってくる。大きな焼きジャガイモにいろいろなトッピングを加え、ガーリックソースをかけて食べたのも忘れがたい。イタリアではあるがドイツ語圏の南チロル、その県都ボーツェンの市ではチーズパン。フィンシュガウアーと呼ばれるクミンなどが入ったパンにとろりと溶けたチーズを挟んでくれる。ただ急いで食べないと寒さでチーズが固くなってしまう。
 食の次は飲み物。グリューヴァイン(ホット・ワイン)。これもクリスマス市に書くことはできない。赤ワインにシナモン、柑橘類、砂糖を入れた物だが、日本なら甘酒といったところだろう。このグリューヴァイン、コレクターにとっても楽しい一品だ。大都市では年ごとにオリジナルのカップを作っていることから、カップだけを買っていく人も多い。
 こんなドイツのクリスマス市、2002年には札幌と大阪でも開催されている。「出張先のほうが儲かる」ということで、ドイツのクリスマス市が日本各地で開催されることになったら、ドイツへ調査に行く必要がなくなってしまう。まんざらなさそうな話でもない。
                   

    (やまかわ かずひこ)