森田太郎(サラエヴォ・フットボール・プロジェクト代表)
「サッカーを通 したボスニア紛争の予防外交」
高校時代より民族問題に関心を抱き、秋野
豊氏の存在によって民族紛争解決を目指そうと決意し、赴いた地サラエヴォ。私の研究プロジェクト計画はその地で生まれた。
旧ユーゴスラヴィア諸国の民族融和、これが私の目指す最大、かつ生涯の目標である。私はその目標に向かって、1ヵ月半過ごし、現地のNGOの下で「民族融和プロジェクト」に携わったサラエヴォで小規模ながらも、私の知る子供たちと共にサッカーを通
じてセルビア人、クロアチア人、ムスリム人の民族融和をはかろうと考えた。これが私の目指す計画目標である。
スポーツを通 じて民族融和をはかるという考えは、荻村 伊智朗氏の活動と、私の現地での経験からヒントを得たものである。現地で得た経験とは、現地での活動を通
じて、子供たちはサッカーをしている時が一番熱中し、幸せそうだからである。私は1ヶ月半の経験を通 じて得たこのヒントを活用しようと以下の計画を立てた。
方法として、15歳以下の子供たちを募りサッカーチームを構成する。その子供たちは公募はするが、主に私が今年知り合った少年、少女から構成される。チームの構成メンバーはクロアチア人、セルビア人、ムスリム人で構成する。指導者を二人ボランティアで募る。その場合セルビア人である私の友人(元ボスニア・ヘルツェゴヴィナリーグ所属プロサッカー選手)をそのうちの一名として採用する。
主な活動援助団体を私が以前活動した現地NGOとする。練習場所をセルビア人共和国、ボスニア連邦(ボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成する準国家)両方に設ける。その場合、正規のグラウンドでなくとも、公園、学校のグラウンドなどを利用する。対抗戦などを各地区の小学校や、クラブチームに依頼して行う。
同じチームメイトとして、民族間の壁を越え協力し合い、助け合う精神を養う。崩壊前、生活していた時のように、まずはサッカーチーム内においては同じ家族として生活することを目指す。また、各準国家に練習場所を設け、一時的ではあるが民族が違えど行き来できる状況を作り、違う民族が住む地域を嫌うことなく、好きになるように、地域の人々にも愛されるチーム作りをする。また、対抗戦などを通
じて他の団体へアピールし、民族間の交流活動の活性化をねらう。
小さな組織からのスタートであるが、民族融和が実現する事実を見せることができる。
今日ボスニアではいたるところで民族融和は進んでいる。私が民族混合のNGOの誕生、民族入り混じっての交流プロジェクト。私もその一歩、一歩前進する動きに加わり、凄惨な紛争を経てきたここボスニアに光を差し込みたいと考える。
民族紛争にはさまざまな「真実」が存在する。それゆえ、私は何も見ていないことを語る前に、自分の見たもの、自分がサラエヴォで見たものを「真実」として捉えるべく、子供たちとの「民族融和」を通
じて、ここボスニア・ヘルツェゴヴィナを見つめて行きたいと考える。
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小山淑子(ブラッドフォード大学平和研究学部博士課程在籍)
「グルジアおよびタジクの紛争解決研究」
この研究プロジェクトは、停戦・平和条約締結という一応の紛争解決をみた社会が、紛争にかかわった者を交えてその後いかにして平和を構築し、共存していくかという問題を考察することを目的としている。本プロジェクトでは平和構築プロセスを、安全保障・司法執行制度の構築−特に、兵士の武装解除・動員解除と警察・軍隊等の治安維持組織の再編成−という側面
から分析し、紛争後の社会に持続可能な平和を築くための提言を行う。
紛争後の軍隊・警察などの治安維持・司法執行組織の構築・改革は、紛争後の社会によく見られる組織犯罪の台頭を防ぎ、暴力ではなく法が支配する社会へと移行するのに不可欠である。また、文民が統率する軍隊組織と治安維持体制の確立、そして紛争当事者にとっての公正な組織運営は、新たな武力紛争発生の大きな抑制力となる。すなわち、こうした和平プロセス・平和構築プロセスが成功裡に行われることは、次なる紛争防止、そして最終的な紛争解決への、最も有効な手段となるのである。
よって本プロジェクトでは、これらのプロセスが現在進行している例として、ユーラシア地域の中でも特に、1997年に政府側と反政府勢力の間に和平が結ばれて以来、武装解除と兵士の動員解除、さらには治安機能の構築を含めた平和構築プロセスに着手しよういう段階のタジキスタン、そして1991年から1993年の市民戦争から数年を経て軍隊・警察が再構築されるに至ったグルジアを取り上げ、紛争解決手段としての和平プロセス、平和構築プロセスを分析・考察していく。
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湯浅 剛(防衛庁防衛研究所研究員)
「タジキスタン紛争に対する国際機関の調停努力」
冷戦後の国際的安全保障体制を確立する上で、中央アジア諸国(カザフスタン、クルグズスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン)は、極めて特異かつ重要な地域である。本研究の目的は、この地域の安定化が具体的にいかなる国際システムのもとで形成しているのかを検討することにある。その際、特に注目したいのは、当該地域の体制移行にあたって、政治的な指導(プログラムの策定、勧告など)をなすにいたった欧州諸国を主たる加盟国・ドナー国とする国際機構であるOSCE(欧州安全保障協力機構)、IMF(国際通
貨基金)、EBRD(欧州開発復興銀行)と中央アジア諸国との関係である。これらの国際機構と中央アジア諸国とは、互いに全く異なる歴史的・文化的背景をそなえて成立した国際的主体であるが、ソ連解体にともない、その加盟・支援対象の地位
を継承する形で、直接的な関係を持つにいたった。旧ソ連諸国は、その是非にかかわらず、連邦解体後の国家・地域秩序の形成にあたって、これらの国際機構の関与を受け入れざるを得ない状況となっている。このような事態は、以下のような二つの問題をはらんでいるものと考えられる。
第一は、「地域的な国際秩序の形成について、地域的(国際)機構はどのような役割を果 たしうるか」というより一般的な問題。第二は、「OSCE、IMF、EBRDはユーラシアの地域統合をめぐる構想・政策に対して、どのようなインパクトを与えているか」という、中央アジアをはじめとするユーラシアの秩序にかかわる特殊な問題である。本研究では、これらの問題を論じるべく、現地調査・インタビューを行うとともに、複数の政治経済的指標を用いて各国の比較分析を行うこととしたい。また、本研究の理論的成果
ならびに分析手法は、体制移行に関する同様の問題を抱える旧ソ連諸国の分析にも応用できよう。ユーラシア地域の体制転換の安定的決着をはかるうえでも、その問題点を抽出するための手法の確立が求められるところであり、本研究はそのための準備作業になりうるものと考える。
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上杉勇司(南西地域産業活性化センター主任研究員)
「PKOは紛争解決の障害か?
-キプロス紛争解決におけるPKOと他の紛争解決努力との相互補完性の考察 -」
「ユーラシア紛争調査プロジェクト」では次のような前提に立って研究を進めてい
く。 現実の紛争解決の過程では、多種多様な行為主体がさまざまな紛争解決努力を行って いる。したがって、そのような状況下で活動を展開する国連平和維持活動(PKO)
が、他の第三者との関係に無頓着な場合には、PKOは紛争解決の手助けになるより は、むしろ解決を阻害する足かせになりかねない。多数の第三者が実施する多様な紛
争解決努力を調整し、効果的な連携体制を構築することは、それらの紛争解決努力が 相互補完的にはたらくことを可能にするだろう。だが、複雑で変化に富む紛争解決の
過程において、複数の第三者が相互補完的に連携することを可能にする方策とは、い ったいどのようなものなのであろうか。
この問いに答えるために、本プロジェクトではPKOの役割が紛争解決過程全体の中
でとらえ直されている。すなわち、PKOが紛争解決を促すためには、PKOと他の 紛争解決努力とが相互補完的になる関係が維持されなくてはならない、という仮説を
検証するとともに、PKOはいかなる条件下においてどのような役割を果たすことに より、他の紛争解決努力との相互補完性が高まるのか、という疑問を明らかにする。
具体的にはキプロス紛争を事例に取り上げる。PKOがキプロス島に派遣されてから
実に36年の月日が経っているにもかかわらず、キプロス紛争には政治的解決の兆し は一向に現れてこない。その理由として「紛争当事者の解決に向けた決意の欠如」が
よく指摘されているが、そのような決意を鈍らせている要因の1つに、PKOの存在 があるのではないか。紛争当事者間に緩衝地帯を形成しているPKOは、キプロス紛
争が本格的な武力闘争に発展することを抑止し、その意味で「平和」を維持してきた と言える。しかしながら、そのようなPKOの効用は、膠着状態を紛争当事者双方に
とって「耐えられるもの」にしてしまった。つまり、PKOの存在は、武力衝突によ る物的・人的被害を最小限にくい止めている一方で、政治的解決や和解に向けた誘因
を中和し紛争解決への動きも押しとどめてしまっている、と考えられるのである。
そこで事例研究では、キプロス紛争の構造や発展段階、およびPKOの特徴やPKO
と他の第三者との関係などを分析することによって、PKOが置かれたどのような状 況が、あるいはPKOのいかなる戦略が、紛争解決の妨げになっているのかを解明し
たい。そのために当事者へのインタビュー調査を中心とする現地調査を実施するが、 その際に、紛争当事者たちと交流したりPKOの活動状況を観察したりすることによ
って、総合的に調査対象を把握することにも努めたい。さらに、現地調査では、紛争 当事者やPKOだけでなく、現地で紛争解決努力に従事している、国際機関、NG
O、 研究者を含む第三者に対しても精力的にインタビュー調査を行う予定である。
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瀬谷ルミ子(国連シエラレオネ派遣団)
「紛争後クロアチアの復興、融和に際しての心理社会面の分析」
近年の国内・近隣諸国間の紛争において、停戦後に物理的な復興が進んだ場合でも、紛争中の経験による憎しみ・恐怖やトラウマ等の心理的要因は解決されずに根強く残り、敵対関係にあった者同士の間に極度の緊張状態を残したままになる事例は数多い。同じ地域における紛争の再燃・慢性化を予防するためには、政府レベルでの和解に加え市民レベルでの心理社会面
の復興が重要である。
事例として取り上げるクロアチアでは、内戦終結後の現在は社会インフラの復興も進み、政治・経済面も他の旧ユーゴスラビア諸国の中では比較的安定している。しかし、1995・1997年の一連の停戦と和平合意は、クロアチア政府による武力と政治的枠組みの中で得られたものであり、併合された東スロヴォニアをはじめとするセルビア人難民の帰還問題、多数派のクロアチア人と少数派セルビア人との間の和解問題、心理面の回復等など課題も多い。これらの心理社会面における未解決の要因は、特に政治・経済面で社会が不安定になった際に新たな火種になる可能性が高いと言える。
従って本プロジェクトでは、紛争後社会においての現地・国際NGO、その他の機関による心理社会面の復興活動を分析することを目的とする。現地での調査・インタビューにより、クロアチアにおいて行われている心理的ケア・和解・融和のためのプログラムの効果と成果を検証する。また、現地の人々にNGOを組織させた要因、現地NGOと他の機関との協力関係、ドナーの影響、既存の同分野での研究等を調査した上で、紛争後社会の心理社会面の復興に関する考察・提言を行う。
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金敬黙(東京大学大学院博士課程在籍)
「紛争地域における市民社会の役割と責任−ユーゴスラビアを事例に−」
本プロジェクトは、ユーゴスラビアの政権側とは一線を画し、民主化や平和問題
に取り組んできた現地市民社会(主に、NGO、独立メディア、学生運動組織等)の役 割と責任 を明らかにすることを目的としている。 国際社会は、ユーゴスラビア(特に、セルビア)を「悪玉
」としてきたが、市民 社会の視点から捉えると、セルビアは「一枚岩」ではなく、制限はあったとしても多 様な議論がそれなりに行われてきた。中でも、NGOや社会(学生)運動を急進勢力と
する市民社会は、権力の抑圧に屈せずに紛争の原因や責任を追及しながら、民主化や 多文化・多民族の共生を目指す活動を展開してきた。
したがって、本プロジェクトの目的は、現地の市民社会が取り組んできた、平和 運動、社会運動に関連する活動の役割・貢献を明らかにすると同時に、現地市民社会
の紛争当事者(加害者側でありながら被害者側でもある立場)としての責任を考察す るためのリサーチである。
同時に、外部者の観点から、現地市民社会との協力を模索する基準として、緊急 救援・紛争解決・平和問題における経済至上主義的、または垂直的援助の実施という
視点を克服 しながら、紛争後の社会において、人々が安全に暮らせる環境を作るた めに市民社会に期待される役割と責任を水平的なパートナー関係として模索・実施す
ることである。そのためにも、ユーゴスラビアの問題を「相対化」し、他の紛争地域 (具体的には、中東地域や北東アジア問題等)への教訓としたい。
特に、このプロジェクトは、紛争解決・平和研究で多く見られる、国際機関、各 国政府が中心となる国家間の利害関係に関わるアプローチではなく、非暴力的価値を
求める市民社会を中心的なアクターとして捉えることである。
調査/研究の実施は、セルビア共和国とモンテネグロ共和国の現地にて調査提案者 が直接実施する予定である。
調査の具体的方法は、現地担当者の証言や文書化され た1次、2次資料を中心に捉えると同時に、現地の市民社会とワークショップやセミ ナーを開催することから、ユーゴスラビアにおける紛争問題や民主化に関するものを
市民社会の視点から批判的に分析する。
現地の市民社会が過去10年間続いた旧ユーゴスラビア紛争とコソボ紛争をどのよ うな視点から捉えているのであろうか。また、ユーゴスラビアの人々は今後、どのよ
うにこの地域の紛争を解決し、平和というゴールに向かっていく努力を行うのであろ うか、という問いに関して様々な視点からの意見・情報を収集し、分析してみたい。
本プロジェクトの実施を通して期待される効果・成果は、以下の通りである。(1) 市民社会の立場から民族または宗教による紛争の原因分析を行うと同時に紛争解
決(和平合意や暴力の停止期まで)やその後の諸活動を分析する。(2)特に、民主化、紛争解決、社会開発、融和等の問題を市民社会の視点から見直 す。
(3)ユーゴスラビアの問題を「相対化」することを試みることから、その他の地域 (特に北東アジアや中東情勢)への教訓とする。 (4) 外部者(国際機関、政府機関、軍隊、市民社会等)が「介入」をすることによ
る、正のインパクトと負のインパクトを見ることから、より良い支援(Good Practice)のための教訓として、国内外にて市民社会の立場として調査分析、政策提
言を行う事例に活用したい。
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渡辺信(法政大学大学院修士課程在籍)
「ウズベキスタンにおける『多民族共同体』と『国民国家形成』の問題」
私が関心を持っているのは、独立後のウズベキスタンにおける「多民族共同体」と「国
民国家形成」との関係であり、全人口に占める割合の高さと共に、国家の名称民族(基 幹民族)となったウズベク人を中心に据えた「国民国家形成」と、その「多民族共同体」
を構成するその他の民族との関係であると言える。つまり、ソ連崩壊という社会変動を 経験し、「多民族共同体」と「国民国家形成」という矛盾する現実の狭間で、「国家」と「民
族」はどのように相互に影響を及ぼすのか、あるいは、その相互関係の限界はどういっ たものなのか、といった問を私は抱いている。
こうした問に対して、私は、国際社会学的アプローチ、また、ナショナリズム論やエ スニック問題に関する方法論の勉強を継続しつつ、これまでの研究者によって明らかに
されてきた内外の研究成果や文献等の資料を用い、ソ連の民族及び言語政策との関連に 注意を払いながら、同時に、独立後のウズベキスタン政府による諸民族政策に注目し、
「秋野豊賞」の基本的な趣旨に従い現地調査を行う。
私は、現地でのアンケート調査の結果により、あらかじめ予想されている「少数民族 は不利である」といった結論に対し、留学時代から感じてきた私なりの感想を保持しな
がらも、「個人」としての人々の日常生活におけるミクロな視点のレベルを大切にし、実 際に具体的な声を集めながら、いわば「公」ともいうべき「国民国家形成」との関係を冷
静に分析したい。こうした作業は、強力な権威主義体制の下、言論統制の厳しさや政治 的無関心の増幅により、「民族」や「国家」といったデリケートな問題が人々によって正
面から議論される機会が減ってきている現状においては、それだけ困難も予想される。 しかしながら、注意深く地道な聴き取り調査を実行することで、多民族社会の実態と、
人々がどれだけ「ウズベク化・国民国家形成」からのインパクトを受けているのか、ある いは、社会はどのような問題を抱えているのか、多くの事柄が明らかになる可能性があ
る。さらに、現地調査の際には、人々と交流する中で、何気なく発せられるであろう示 唆に富んだ言葉も大切に記録するほか、文献収集も日常的な活動とする。また、ウズベ
キスタンの民族政策の一端を担う「共和国民族文化センター」や各民族の文化センター などの公的機関も訪問し、少数民族の文化活動の状況と国家による位置付けを調査する。
ソ連崩壊に続く独立から10年を迎えようとする今日、民族間関係をめぐって非常に 錯綜した状況が続いていると言われるが、上述した私の問に対し、一連の「ウズベク化・
国民国家形成」が、実際に一般の人々、特にウズベク人以外の民族にとってどのような 影響を与えているのかを具体的に明らかにし、現実に即した的確な分析を行うことが研
究の目的であると言えるだろう。
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江崎智絵(筑波大学大学院博士課程在籍)
『イスラエル・パレスチナ紛争の政治分析 −1996年5月から2001年1月までの最終地位交渉過程を事例として− 』
1993年9月、イスラエル政府とパレスチナ解放機構との間でオスロ合意が調印された。オスロ合意は、ヨルダン川西岸、およびガザ地区における五年間の暫定自治実施の枠組に関する合意と、イスラエルとパレスチナ解放機構が互いに交渉相手として承認し合うという相互承認の二つの柱からなる。1994年5月にはパレスチナ自治政府が発足し、オスロ合意で作成された最終地位交渉のタイム・テーブルに沿ってイスラエルとの交渉が進められた。1997年から1999年にかけては、パレスチナ自治区からのイスラエル軍撤退に関する合意が成立した。しかし、2002年3月末にはエルサレムで起きたパレスチナ人過激派の自爆テロに対抗して、イスラエル軍がパレスチナ自治区へ軍事侵攻を開始した。イスラエルとパレスチナ自治政府との和平交渉は、暴力の連鎖によって「オスロ合意の完全な崩壊」が叫ばれるほどの危機へと発展したのである。
イスラエルとパレスチナ自治政府との間に合意が成立したにもかかわらず、暴力の連鎖が生じるのはなぜであろうか。イスラエルとパレスチナ自治政府との政治的駆け引き(バーゲニング)において、なぜ紛争の当事者間において暴力の発生と軍事力の行使に対する抑止が機能せず、交渉の停滞を引き起こす暴力の応酬が繰り返されてきたのであろうか。
暴力の応酬が生み出される背景は、イスラエルとパレスチナ自治政府のバーゲニングが政府レベルでの合意を可能としても国内的に受け入れられるものではないという点に求められる。すなわち、国内に和平合意に反対する諸勢力が存在するのである。特にパレスチナ側において反和平派の存在は、交渉者の国内基盤が民衆の支持を欠いているということに繋がり、合意が崩れる前提となってしまう。パレスチナ自治政府がイスラエルとの合意によって国内を取締ることは、パレスチナ民衆の側からすると単なる押し付けでしかなく、その反発として過激派武装集団に属しない個人までもが自爆テロへと身を投じることになる。そして、イスラエルとの和平交渉を行うこと自体が、ヤーセル・アラファト議長率いる自治政府の存続をはかるための戦略的手段でしかないという不信感を醸成させるのである。
自爆テロの発生は、合意内容の達成と国内の取締りを行うことのできないパレスチナ自治政府に対するイスラエル政府および国民の不信感を高める。そして、和平交渉において対パレスチナ態度を硬化させ、イスラエルが受け入れ可能と考える合意の妥結可能領域は狭められる。イスラエルのパレスチナ自治政府への不信感や憎悪は、最悪の場合には自治区への軍事侵攻として顕在化する。
イスラエルのこのような態度は、パレスチナ自治政府およびパレスチナ民衆のイスラエルに対する不信感を高めるであろう。その結果として暴力の連鎖が生じ、パレスチナ側がバーゲニングの一手段として暴力を利用しているかのような構図が形成されるのである。
このような状況の中で明かになるのは、イスラエル・パレスチナ紛争の和平交渉において、国内政治と政府間交渉が密接に関連していることである。すなわち紛争当事者内の和平派−反和平派の存在が、イスラエルとパレスチナ自治政府との和平交渉に大きな影響を与えるということである。
本研究は、イスラエル・パレスチナ紛争における和平交渉過程をロバート・パトナムによって理論化された2レベルゲームの観点から分析することを目的とする。事例としては1996年5月から2001年1月までのイスラエルとパレスチナ自治政府の最終地位合意を用いる。政府間交渉でのバーゲニングと政府間での合意形成をめぐる国内政治での諸勢力間のバーゲニングという二つの次元を設定し、それぞれのレベルでどのようなバーゲニングが行われ、二つのレベルの間でどのようなバーゲニングの相互作用が働いているのかを解明する。そして、この分析によって紛争の解決に向けて和平合意を成立させるために、いかに非暴力的な手段で各当事者が可能とする了解範囲を噛合わせることができるのかという問いへの示唆を得ることができると考える。
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久保慶一(早稲田大学大学院博士課程在籍)
『多民族国家における民主主義と民族問題
−2002年ボスニア総選挙のフィールドリサーチ−』
多民族国家においては、民主化を達成することが難しいとしばしば論じられてきた。民
主化に伴い、国旗、国語(公用語)などの文化的・象徴的な争点が浮上し、ある民族が不 満を高める場合がある。選挙の際、自民族の支持を得ようとして政党や候補者が過激な主
張を行い選挙民を煽る場合がある。逆に、政治家が穏健な政策を進めようとしても、選挙 民がそれに不満を持ち、(次の)選挙で民族主義的な主張をする政治家に投票する場合も
ある。特定の民族に肩入れする政治家が国家権力を掌握するとき、多民族国家内部の民族 間関係はしばしば悪化する。このように多民族国家における民主化は、時としてかえって
民族問題を悪化させてしまうのである。旧ユーゴ地域の中でも最も民族構成が複雑なボスニアは、和平合意の締結後もこうした現象がとりわけ顕著である。とくにボスニアを内戦
へと主導した3つの民族主義政党は、数次にわたる選挙で議席数をしだいに減らしつつあ るとはいえ、依然として強い勢力を維持しており、民族主義政党への選挙民の支持もなお
根強い。ボスニアにおいて、民主主義と良好な民族間関係の維持を両立し、安定した民主 的国家を建設することはできるのであろうか。
本研究は、そうした問いに対する答えを見出すために、2002年10月のボスニア総選挙の 選挙運動から投票、開票・選挙結果の発表までの約5〜6週間ボスニア各地を訪問し、政
党と選挙民の間の相互作用を観察・分析する。具体的には、政党関係者や選挙民へのイン タビューや選挙集会への参加を通じて、各政党がどのような問題を争点化し、どのように
して選挙民の支持を得ようとしているか、それに対して選挙民がどのように反応している か、どのような理由から支持する政党・候補者を決めているかを観察・分析する。またそ
の両者をつなぐアクターとしてメディアやNGOの役割についても考察する。さらに今回 の選挙からは、OSCEにかわってボスニア行政当局が選挙管理にあたる。すなわち、ボ
スニアが自由で公正な選挙を自主的に組織して成功させることができるか否か、ボスニア 行政当局の力量もまた問われている。そこで本研究では、選挙運動期間中(選挙違反の取
締り等)から投票、その開票と結果の確定までにわたって、ボスニア当局の動きにも十分 な注意を払い、ボスニア当局が円滑に業務を行うことができるか否か、そこにどのような
困難や問題があるかを観察・分析する。現地滞在中、新聞報道等は出来る限り広範にそし て継続的に収集し、資料として利用する。
このようにボスニアにおける選挙に関わる様々なアクターたちの生の声を収集し現地の 視点から観察・分析することで、選挙結果の表面的な分析ではなく、ボスニアにおける選
挙・民主主義と民族問題の関連について深い洞察を得ることができると考える。
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吉留公太(名古屋大学大学院博士課程在籍)
『冷戦後の大西洋同盟間対立と善悪二分論の展開−1993年
のボスニア紛争国際調停過程の分析を中心に−』
米国同時多発テロ事件とそれに続く対アフガニスタン軍事介入以来、アメリカの
ジョージ・ブッシュ大統領は「敵か味方か」「善か悪か」を鮮明に意識した論理で外 交政策を説明しています。これを善悪二分論(または善悪区分論)と呼びます。その
冷戦後の展開を1990年代はじめの大西洋同盟(米欧関係)のいざこざにさかの ぼって検討しようというのが、この研究の課題です。
同盟は、何かに対してまとまる仲間の集まりだと考えられます。NATOや日米安全保 障条約には、その結びつきを正当化する理屈がいるわけです。これを誰のどのような
理屈で正当化するかによって、同盟の性質と周辺地域への影響が違ってきます。例えば、ジョージ・ブッシュ大統領のいう善悪二分論を受け入れるということは、その背
後にある政策(おそらくは対イラク戦争や国家ミサイル防衛計画推進)に同意するこ とを意味するから、西側各国は何とか距離をおこうとして懸命です。つまり、同盟国
間には具体的な政策に同意するかどうかの前に、どのような理屈で結びつきを正当化 するのかという対立がまずあるわけです。
だから、1990年代半ばによく耳にした「日米安保の再定義」とは、同時進行し ていたNATOの再定義とあわせて、まさしく西側同盟を冷戦後において生き残らせ、そ
の性質を決める過程であったことに気づきます。アメリカのクリントン政権は「(市 場)民主主義の拡大・関与戦略」を打ち出し、西側同盟を再定義したのでした。 この戦略は、次のような理屈に立っています。民主主義体制どうしは戦争をしな
い。戦争は非民主主義体制によって起こされる。いわゆる「デモクラティック・ピース論」です。ところがこの理論、裏を返すと、戦争と平和を国内体制の違いで説明す
る善悪二分論でもあります。これを政策化したアメリカは、民主主義体制全体を守る という理屈で西側同盟を正当化していったわけです。どうしてこの理屈にクリントン
政権は注目したのでしょうか? そのヒントがボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(以下 ボスニア紛争)にあります。 当時ボスニア紛争は激しさを増し、欧州諸国は国連をせき立てながら、停戦・和平
調停に乗りだしていました。最も注目されたのが1993年1月に発表された「ヴァ ンス・オーウェン和平計画」です。この計画は、紛争当時者の同意のもとでボスニア
を民族構成別に10地域に区分し、その合意遂行の監視を国連平和維持部隊が行うと いうものです。計画実行にあたって、平和維持部隊へのアメリカからの大規模な人的
支援を見込んでいました。ちょう同時期に就任したクリントン大統領は、大統領選挙 期間中に国連平和維持活動への積極参加をうたっていたからです。
ところがクリントン大統領らは、政権発足後「ヴァンス・オーウェン和平計画」へ の消極的態度を示し、対案として「空爆と武器禁輸解除」政策を提示しました。この
政策は、一方で様々な国連決議違反をNATO軍機による空爆で押さえ込み、他方で国連 決議713号(1991年9月)の禁じた旧ユーゴスラビアへの武器輸出の解禁を目
指すものです。つまり、「ボスニア紛争の悪はセルビア人勢力であり、その悪に立ち 向かうには軍事力しかない」というわけです。片や欧州諸国は「国連・中立・交渉」
を調停の柱としていましたから、アメリカとの相違が鮮明になりました。結局欧州諸 国の紛争調停の試みは失敗し、NATOによる空爆を経て、アメリカによってまとめられ
た『デイトン合意』でこの紛争の国際調停が計られました。要するに、軍事力を強調 したアメリカの理屈−善悪二分論−が通ったわけです。この過程を分析することで、
善悪二分論が、いかに大国どうしの対立の都合で作り出されたものであるのかをはっ きりさせたいのです。 善悪二分論は困った存在です。それが紛争調停に持ち込まれた場合、「善」が力づ
くででも「悪」を倒すことが一番の紛争解決という理屈になるからです。ところがそ う煽りながらも、適用はいつもご都合主義です。アメリカは、欧州側の「国連・中立
・交渉」の原則を非難しながらも、結局『デイトン合意』をまとめるためにミロシェ ビッチとも交渉したのです。現代の民族紛争において、大国が上から善悪二分論を当
てはめることで、そこに生活する人々にホントの幸福をもたらすのでしょうか?
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南野大介(筑波大学大学院博士課程在籍)
『クリミアにおける紛争予防―「コミュニティー集会」を通した多民族社会の構築を中心に
―』
1990年代のクリミアではウクライナからの分離・独立をめぐり不安定な情勢が続いた。現在、この問題はほぼ解決されたが、第二次世界大戦中に中央アジアへ追放されたクリミア・タタール人の帰還に伴い生じた新たな民族関係が、依然として同地域で問題となっている。クリミアに帰還したクリミア・タタール人は生活環境の向上や権利拡大を主張する一方、同地域で多数派を占めるロシア人はクリミア・タタール人を中心とする民族国家が新たに樹立されるのではと警戒している。
クリミアではこうしたクリミア・タタール人問題が過度に「政争の具」として扱われる傾向にあり、対立が激化する潜在的要素も見られる。クリミア・タタール人評議会(メジュリス)は、自民族をクリミアにおける「原住民」と主張し、行政・立法における民族枠代表権を獲得し、土地問題、民族教育問題などを解決しようとしている。他方、クリミアのロシア人政治家らはこの主張に対して過敏に反応し、特に米国における9.11テロ事件以降、イスラーム原理主義との協力疑惑もあるクリミア・タタール人を敵視する発言を繰り返している。
現在のクリミアは紛争といえるレベルには達していないが、政治レベルでの緊張関係が拡散し紛争となる危険性を孕んでいる。中央から居住地区に至るまでの垂直組織を持つメジュリスやロシア人政治家の発言などが影響し、現在のところ民族関係が安定している日常社会に政治レベルでの対立が持ち込まれることも懸念される。
国連開発計画(UNDP)が取り組んでいる「クリミア統合・開発プログラム」は、現在のところ対立の少ない住民の生活レベルに焦点を当てたアプローチとして注目される。このプロジェクトの特徴は、帰還したクリミア・タタール人のみを対象とするインフラ整備など従来の支援アプローチではなく、帰還民を念頭に置きながらもクリミア全体のためにプロジェクトを実施していることにある。帰還民のクリミア社会への統合をキー・ワードとして民族共存のためのコミュニケーション確保を目的とした「コミュニティー集会」を各地に作り、所属民族に関りなく住民が政策形成プロセスに参加することを促している。
本研究では、このUNDPのプロジェクトを手がかりとしながら、生活の問題を協議し政策形成に参加する民族混成の「コミュニティー集会」を通した紛争予防の可能性について論ずる。このようなアプローチの有効性と限界について研究し、更にはクリミアの紛争予防そのものに対して貢献するため、以下の4項目に従って調査を進める。
第一に、「コミュニティー集会」を通した多民族社会構築の試みがどの程度成功しているのかについて、実際に開かれる集会をオブザーブし、住民が共に地域の問題に取り組むという目標がどの程度達成されているのか考察する。更に、集会において討論された課題、要望などが行政府の政策形成に至る過程についても関係文書の入手や面談を通してフォローする。
第二に、クリミア・タタール人の主張がある程度集約されているとされるメジュリスの組織について解明する必要がある。メジュリス関係者との面談や文書の入手により、クリミア全域に広がるメジュリスのネットワークやクリミア・タタール人の間での組織率に関する調査を行う。また、クリミア・タタール人の「原住民」としての地位を主張するメジュリスは、帰還民のクリミア社会への統合を掲げたプロジェクトに必ずしも協力的でないが、その背景を探るべくメジュリスの主張を明確に把握する。
第三に、国際社会による支援の成否は、受入国の姿勢にかかっている部分が大きい。政府の関係者から、クリミア・タタール人問題解決のための長期的計画や支援の現状に対する評価を聴取する。また、クリミア・タタール人に対する攻撃的発言を繰り返す政治家とも面談し、対立の背景に関する知識を深める。
第四に、「コミュニティー集会」が軌道に乗っている地区の場合、集会開催のインセンティヴを維持することが課題になる。集会で話し合われた要望に対して時には政府や国際社会からの資金が割当てられ、ある程度の生活環境が目に見える形で改善に繋がることが重要である。今回の調査を通して明らかとなった現場での需要を考慮に入れ、更なるプロジェクト案を形成し提案する。
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須田将(上智大学大学院博士課程在籍)
『ウズベキスタンのマハッラ――「町内会」組織を通じた擬似『市民社会』の創出』
ウズベキスタンでは2003年は「栄えるマハッラ年」と定められている。この措置は同国全土に1万0133ある(UNDP/CER2000年数値)マハッラ(伝統的地区社会)を統括する「市民たちの自治機関」の自治機能を強化し市民社会の創出を促進するものと説明されている。
今日、同国の政府機関だけでなく多くの国際機関やNGOがマハッラに注目し、「市民たちの自治機関」を通じて各種支援を行っている。ソ連崩壊後、病院・上下水道・道路保全・清掃・消防といった公的サーヴィスが瓦解するなかで、様々な分野において人間的社会生活の維持に必要な自助努力や住民の相互扶助の契機がマハッラに見出されているのである。しかしながら、今日のマハッラは、住民が自発的に地域的問題に取り組み自力で解決していこうとする市民組織とは明確に異なる。
たしかに前近代の伝統的国家のもとでは、マハッラは自律的な社会の細胞であったといえる。マハッラでは寄合において選出される長老が地区にとって重要な問題の処理に責任を負い、各種年中行事や通過儀礼が住民の全員参加によって営まれたとされる。
しかし、ソヴィエト期に入ってマハッラはソ連の中央集権的官僚機構に完全に組み込まれることになった。1932、41、53、61、83年の各法令によってその活動内容が細かく規定された「マハッラ委員会」とその付属委員会が、地方ソヴィエト執行委員会の緊密な監督と指導のもと、住民を地区の環境整備のために動員し、ムスリムたちを共産主義精神に基づいて教化し、生活規範の維持・遵守にあたった。1960−70年代におけるタシュケント十月市区「前衛」マハッラでの各種活動を紹介したパンフレット類などから、その姿を伺い知ることができる現代のマハッラは、一定の区画をもち、全世帯を組織し、地域包括的であり、地域代表性をもち、かつ住民の動員と統制に大きな役割を果たすものであり、日本の戦時体制下の町内会をも彷彿とする官製組織である。
独立後、政府はそれまで共産党初級諸組織が主に担っていた公的機能をマハッラ委員会へ移し、「市民社会の基盤」「民主主義の学校」とマハッラを呼びはじめた。しかし、しばしばマハッラが体現するとされる「市民社会」は、参加型の自由民主主義よりは共同体原理や長老支配の伝統と結びついている。それは民主化を促進するものというよりは、ナショナリズムや「草の根の権威主義」を促進するものである。下位共同体マハッラに属する人々は上位共同体ウズベキスタン国家に自動的かつ優先的に従属すること、またマハッラの長への尊敬は「我々のくにの長」への尊敬につながることが期待される。マハッラを構成単位とする「平穏な」擬似市民社会の創出を通じて、ウズべキスタン国家の安定と政権と政策への広範な支持を演出しようというわけである。
1999年の首都での連続爆発事件を契機に、10人程度の兵役終了者によって構成される「マハッラ防衛隊」が各マハッラに配置され、警察との協力により潜在的敵対者の摘発が行なわれてきた。だが、暴力的手段による政府転覆の衝動は潜在化しておりこの地域における紛争防止と安全保障に暗い影を落としている。こうしたなかで、米国同時多発テロ事件以降の「対テロ戦争」において、米国がウズベキスタンとの準同盟関係を優先しイスラーム主義勢力の弾圧への批判を緩めたことで、米国が掲げてきた自由と民主主義という政治的理念のオーソリティーが失墜してしまったことが憂慮される。
秋野賞を受賞したことにより、これまで中心的に行なってきた史資料の読解に加えて、北部アフガニスタンでのNGO活動参加により中断していた都市と農村におけるマハッラの実態調査を続行する予定である。
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中西健(横浜国立大学大学院博士課程在籍)
『キルギスにおける我が邦人に対する現地官憲による暴力事件の解決過程』
国際法は、戦争を禁止し、武力紛争を規制することに主眼を置いてきたが、紛争の背景となっている人権・貧困等の開発問題・紛争予防に協力に関しては消極的であった。同様に、邦人保護においても主権による制約が存在するが、日本刑法において発展の動きも見られる。本プロジェクトの総括的目標は、邦人保護の現状と態様、限界と可能性を見極めることである。
キルギス外務省のプレスリリース(2002年11月28日)によれば、キルギスでは外国人をターゲットにした犯罪が増加しており、その犯罪の大多数が警察および内務省関係者によって為されているという。昨年2002年9月に、私自身が留学・インターン先のキルギス共和国の首都ビシケクで現地官憲等から暴行・傷害・公文書改ざん要求および脅迫等の被害を蒙った。この事件の解決過程をひとつの事例として国際法、統治機構論、邦人保護の枠組みの中に一般化させて考察する。事件発生当初、法に従い、キルギス兼轄在カザフスタン日本大使館(2003年3月まで)の協力により、本件は短期に解決されると思われた。我々被害者の要求は、犯人たちに対する法を厳格に適用しての処罰にあるのではなく、被害者としての最低限の扱いと法に基づいた犯人たちの人定の公開(安全確保の為)、そして我が在外公館による現地外務省に対する効果的な対応にあった。しかし、加害者が警察関係者であったこと、また、現地における賄賂・コネ、様々な慣習、障害、さらに、キルギスにおける公館の不在などによって問題解決は困難を極めた。
本プロジェクトでは、事件発生から現在までの現地における法手続き・書類を整理し、現地の法のありかたの特徴およびその背景、問題点を指摘するのが第一段階となる。本プロジェクトによって明らかになることのひとつは、「キルギスにおいては法が機能していない」という、既知の事実であろう。しかし、事実を経験でもって確認し、問題意識を設定し、対応策を考えることに本プロジェクトの意義がある。本件につき、今春新設されたばかりの在キルギス日本大使館(2003年4月以降)の協力の下、第1に、私個人の権利・利益・安全のため、第2に、事件がウヤモヤに解決されてしまうことよって、後に続く日本人がターゲットにされることを防ぐため、第3には、こういった努力が、ささやかながらも現地の人権状況の改善につながるのではないかいう意図でもって、効果的な解決に尽力する。法が機能していないキルギスのような社会にあっても、我々外国人は恵まれている方であって、内国民はもっと辛酸を舐めさせられている実情をも知るに及んだ。同時に、日本人は、キルギスのような、これまで辺境と考えられてきた地域においても、長期在留者の数を着実に増やしつつある。その点において、邦人に対する事件をウヤムヤに済ませずに大使館の協力の下、どんな小さな犯罪についても外交ルートによって現地関係諸官に事実解明の要請・抗議していくことの積み重ねによって邦人保護が浸透していくものと思われる。そのことは最大の国益であると私が考えるところの在外邦人の権利・安全の確保・維持・増進という点において資する。邦人の身の安全、権利・利益の確保という土台があってこその友好関係促進であると考える。
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澤井充生(東京都立大学大学院博士課程在籍)
「清真寺をめぐるエスノ・ポリティクス―中国社会主義体制下の回族のジャマーアティの再編―」
回族は、かつて中央アジアや西アジアから中国に移住したアラブ・ペルシア・テュルク系ムスリムと漢人との通婚によって形成されたイスラーム系少数民族であり、清真寺(モスク)やゴンベイ(スーフィー教団聖者墓)を中心に独自のジャマーアティ(地域社会)を形成してきた。回族は中華的世界秩序のなかで形成された民族集団であるという歴史的特殊性から、ウイグル族とは異なり、民族分離独立運動は展開してはいない。しかし、回族の言語(漢語)や服装などは漢族のものと文化的共通性が顕著であるぶん、逆にエスニックな独自性が漢族になかなか理解されないことが少なくない。その結果、回族と漢族とのあいだで文化摩擦や武力衝突が生まれることがある。例えば、1989年の『性風俗』事件(イスラームを侮辱した漢族の書物に端を発したムスリムの抗議運動)、2000年の陽信事件(漢族によるムスリム向けの豚肉販売に対する回族の抗議デモとそれに対する公安当局による武力鎮圧)などは改革開放政策導入後に報道されたムスリムと非ムスリムの間の民族紛争である。こうした民族・宗教的な偏見や誤解による事件が発生する背景には、回族の人々が中華的世界秩序においてイスラームをどのように実践してきたのか、さらには、中華人民共和国成立後、回族の人々が社会主義政策をどのように経験してきたのかという基本的な問題が当事国の中国においても十分に明らかにされていない現状がある。
従来の回族研究では、F・バース、C・カイズらのエスニシティ論やB・アンダーソンの「想像の共同体」の議論をふまえ、回族のエスニック・アイデンティティの形成と国家政策との相関関係が中心に議論される傾向が強かった。こうした視点は、国定民族のエスニシティの人為的側面(政治的配慮による民族の構築)を看破しえても、回族のエスニシティが人々の具体的な生活実践の中で自生的に生成する過程を十分に捉えられてはいない。この点を補足するには、回族の人々が歴史的に社会生活の基盤を置いてきたジャマーアティに注目する必要があると考えられる。
本プロジェクトの目的は、回族の人々が中国共産党の政治イデオロギー(社会主義、愛国主義、中華ナショナリズム)や社会主義諸政策に対しどのように対処しているのかを考察することにある。そこで私は、清真寺のアホン(宗教指導者)、マンラー(寄宿学生)、清真寺民主管理委員会、カオム(一般信徒)が自主的に取り組むジャマーアティの再編に着眼した。改革開放政策導入後、回族の人々はどのように清真寺を管理運営し、伝統的なイスラーム教育を再開し、六信五行・婚姻慣行・葬送儀礼などの儀礼実践に取り組んでいるのだろうか。そうした生活実践はいかなる社会編成の原理(血縁、地縁、民族、宗教・教派、政党など)によっており、どのようなイディオムで回族の人々によって説明されるのだろうか。また、回族の人々はジャマーアティ再編の利害をめぐって、同じ民族だけでなく、漢族や中国共産党・政府(回族の共産党員も含む)とのあいだで、交渉・駆引き・協調・対立などの複雑な相互作用を展開する。こうしたジャマーアティをめぐる実践と解釈は、マジョリティや国民国家との権力関係にどのように影響し、同時にジャマーアティのあり方にどのように影響するのだろうか。こうした問題を念頭におき、本研究は、ムスリム・マイノリティのジャマーアティの再編が持つ意味を中国共産党体制下および漢族との民族間関係という歴史的・政治的脈絡の中で検討する。その際、寧夏回族自治区では1950年代以降社会主義諸政策が最も急激に進められた点、内モンゴル自治区では中華民国期に日本の植民地統治を経験した点を重要なファクターとして考慮し、同じ回族のジャマーアティの歴史的経験や現状にみられる共通点と相違点も視野に入れる。
私は、これまでのフィールドワークの経験から、歴史学的な文献研究や人類学的な民族誌的調査を統合したアプローチが、少数民族が特定の歴史的政治的条件下で構築されている側面だけでなく、その社会的現実が人々のエスニシティのあり方を多様に方向づける側面をも分析することができると考えている。本研究が実施されれば、異なる民族や宗教が共生してきた歴史的事実だけでなく、そうした多民族文化の複合状況がどのような条件下で文化摩擦や武力衝突へと転化しうるのかという問題をも見極める視点を提供するのに有効な方法の一つとなることが期待される。
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山田 裕史(上智大学大学院外国語学研究科在学)
カンボジアにおける選挙をめぐる紛争」
申請者は2002年と2003年の2度、カンボジアの選挙監視NGOのひとつである「カンボジア自由公正選挙委員会」(COMFREL)と協同し、国際選挙監視員としてカンボジアの地方選挙および国政選挙の選挙監視活動を行なった。そこで実際に目にしたのは、一連の選挙過程において多発した紛争と、それに起因する政党間の政治的対立の深化であった。こうした現実は、選挙を取り巻く政治的環境にはさほど着目せず、選挙結果のみを重点的に取り上げる傾向の強い各種メディアによる楽観的な報道とは対照的なものだった。
本研究の目的は、カンボジアにおける選挙をめぐる紛争の要因を明らかにし、同国の民主化プロセスを民主化論という理論的視点と、国際選挙監視員として活動した現場の視点から再検討することにある。20年以上におよぶ内戦や虐殺、国際的孤立を経験したカンボジアで複数政党制下での自由選挙が実施されたのは、同国が国連の暫定統治下にあった1993年5月のことである。その後、カンボジア政府は国際社会による財政的・技術的支援を受けながら、1998年7月に国民議会選挙、2002年2月にクム・ソンカット評議会選挙(地方選挙)、2003年7月に国民議会選挙を実施した。
カンボジア政府は国際諸機関・各国政府から開発援助を引き出すために、国際社会および国内の選挙監視NGOなどによる選挙監視活動を認めることで、選挙が自由かつ公正に実施されていることを証明しようとしてきた。しかし、これまで多くの研究が指摘しているように、国際社会による選挙監視活動は投開票日を中心とした短期間に集中し、選挙を取り巻く政治環境や投開票以外の一連の選挙過程までは十分に監視できないという限界がある。その結果、国際選挙監視団(とりわけ各国政府による選挙監視団)が発表する報告の多くは、投開票過程が大きな混乱なく実施されたという点で、選挙は「自由かつ公正」に実施されたと評価する場合が多い。これに対して、カンボジア国内の選挙監視NGOは長期的かつ全土を網羅した選挙監視活動を行なっており、投開票過程以外で観察された、選挙結果にも影響を及ぼすような重要な問題点を数多く指摘している。こうした事実にもかかわらず、現地の選挙監視NGOによる報告は国際的に注目を浴びることは少なく、国内の政治過程に与える影響も極めて限られたものとなっている。
以上のような現実から、日本をふくむ国際社会では、カンボジアでは自由選挙が定着し、民主化プロセスが順調に進展しているという見方が大半を占めているように思われる。しかしながら、カンボジアでは選挙の度に政権党に偏向した国家選挙委員会の人選や、政権党による電子メディアへのアクセスの寡占、政治的理由による殺人・暴力・脅迫事件など、選挙の正統性に関わる本質的な問題が指摘されてきた。その結果、1998年および2003年国民議会選挙後、野党による選挙結果の受け入れ拒否によって政党間の政治的対立は深化し、新政府の成立まで1998年は4ヵ月以上、2003年は11ヵ月以上もの時間を要した。
こうした事実から申請者は、選挙をめぐる紛争の最大の要因は人民党主導の連立政府による「選挙という規範」の歪曲、すなわち人民党に有利な選挙制度の構築にあるとみている。そこで本研究の第1の主題は、「国民議会選挙法」の制定過程とそれを取り巻く政治的環境、および選挙法の具体的な内容(いかに人民党に有利な内容か)を検討することである。1997年7月、連立政府を構成する人民党とFUNCINPEC党の政治的対立は武力衝突にまで発展し、FUNCINPEC党のラナリット党首は第1首相の座を追われ、他の反人民党系の議員とともに海外への亡命を余儀なくされた。国民議会における選挙後の審議は武力衝突前から始まっていたが、同法が採択されたのは反人民党勢力が一掃された武力衝突後の1997年12月のことだった。本研究では選挙法の具体的な内容の検討に留まらず、同法制定過程にどのような議論があったのかという点を、近年なって公開された国民議会の議事録(クメール語)の分析を通じて明らかにしたい。
本研究の第2の主題は、国家選挙委員会や国際選挙監視団、選挙監視NGOなどの報告書(1998年選挙、2002年選挙、2003年選挙の3回分)の比較分析を通じて、選挙をめぐる紛争の具体的な内容と特質を明らかにし、それがいかして解決されたのか(解決されなかったとすれば、それはなぜか)という点を検討することである。1997年7月の武力衝突の余波の中で実施された1998年選挙は、何よりも選挙を予定通りに実施できるかどうかが最大の焦点となった。他方、2002年や2003年選挙では選挙の質が重視され始め、選挙制度改革が実施された。上記の第2の主題を検討することによって、選挙という視点からカンボジアにおける民主化プロセスの進捗状況を明らかにできると考える。
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岸田圭司(東京外国語大学大学院地域文化研究科在学)
「英国公文書にみるイラク・キルクーク帰属問題の歴史的考察」
本調査・研究プロジェクトの目的は、英国・国立公文書館及び英国・国立図書館所蔵のイラク関連歴史史料の収集・分析調査を行うことによって、「イラク・キルクーク帰属問題」を歴史的に考察し、その平和的解決に向けた方策を探ることである。
キルクーク帰属問題とは、イラク北部の油田地帯キルクークを巡って、その帰属を主張する「少数民族」クルドの政治勢力とそれに反対するシーア派アラブ人、スンニ派アラブ人、トルコ系少数民族トルクメンらが対立し、一触即発の緊張状態にあることを指す。
クルドとは総人口約2500万人といわれる、中東最大の「少数民族」である。彼らは独自の国家を持たず、トルコ、イラン、イラクなどに「分断」され居住し、独立や自治を求めて、各国中央政府としばしば武力衝突してきた。現在、世界の注目を集めるイラクでは、クルド政治勢力が国家再建の鍵を握っているといわれる。なぜなら、彼らが独立を志向した場合、イラクという国家は「解体」に向かう。そして、それは多数のクルド人口を抱えるトルコ、イランなど隣国を刺激し、結果として大規模な地域紛争に発展する恐れさえあるのである。
今後のイラク安定化における重要な争点のひとつキルクークの地位について、クルド政治勢力は「キルクークでクルドは多数派であったが、イラク政権の「アラブ化(Arabization)政策」によって、人為的に人口比を変更され、少数派に転落した」ゆえに「キルクークはクルドの土地である」と主張している。「アラブ化政策」とは条文化されたものではない。主にフセイン政権時代、キルクークからクルドを追放し、アラブを入植させた「政府方針」だ。アラブを多数派にし、クルドの帰属要求を退ける狙いがあったといわれる。
しかし、キルクーク周辺は山の民クルドと平地の民アラブの居住区の境界線にあたる微妙な地域でもある。その郊外には、スンニ派アラブ人が多数派を占めるいわゆるスンニ・トライアングルが迫っている。クルド側の主張も含め、キルクークに関する情報は精査する必要があるのではないだろうか。
今後のキルクーク帰属問題の展開を考えた場合、多角的な史料に基づいた歴史的事実の検証は非常に重要である。そこで予備的調査を行った結果、歴史的にイラクと関係が深い英国・公文書館などに400点以上のイラク・クルドに関する史料の存在を確認することができた。
本調査は、「キルクーク帰属問題」に対し、紛争予防・解決の視点に立ち、その第一歩として英国・外交文書等の歴史記述を通し、歴史的事実の再検討を試みる。収集史料の評価に際し、他文献による検証だけでなく、筆者のフィールド調査内容との比較研究も行う。それらの研究結果を踏まえ、複雑に絡み合った「キルクーク帰属問題」の平和的解決に向けての提言を行いたい。
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清水麻衣子(オーストラリア・クイーンズランド大学修士課程在籍)
「東ティモール独立後の平和構築における青年層の社会統合問題」
紛争後の社会における平和構築プロセスにおいて、「政治と経済の自由化(民主化と自由経済の導入)」は、国連や世界銀行などを初めとした国際援助機関の支援政策の両輪になっている。国際援助機関がとるこのような政策は、「政治と経済の自由化が社会の発展をもたらし、ひいては社会の安定をもたらす」という仮説に裏打ちされている。しかし、このアプローチには、様々な批判がされてきた。それらを整理すると、第一に、主要国際援助機関の推進する平和構築スキームは画一的なモデルを世界のどこの地域にでも当てはめようとするものである。第二に、政治と経済の自由化とは、いわば競争の原理であり、社会にうまく統合されるグループと、脱落していくグループをうみがちであるという点である。社会の脱落者から不満が生まれ、中長期的な平和構築の足かせになっていくプロセスは、紛争後の平和構築を進める社会で多く見られる現象である。
本研究プロジェクトでは、「国連や世界銀行などが進める自由化主導の平和構築プロジェクトが、中長期的な平和の定着・社会の安定にそぐわない」という批判が果たしてどの程度まで妥当なものであるのかを検証する。そして、もし批判に妥当性があるとすれば、それをどのように補正していけるのか、という点について解明していきたいと考えている。本プロジェクトでは特に、社会的セーフティーネットに注目する。セーフティーネットの機能を果たすものとして、社会に対する不満を持った人々に発言機会を与え不満の受け皿となるような組織、一般に市民社会団体(Civil
Society Organisations、CSOs)といわれるものも含まれると考えられる。具体的には、東ティモールにおける各種青年団体のような例がある。本プロジェクトを通じ、「紛争後の社会において、政治と経済の自由化が社会の発展をもたらすには、同時に社会に対する不満を持った人々に発言機会を与え、不満の受け皿となるようなセーフティーネットを確立することが不可欠である」ということを明らかにしたい。
具体的には、東ティモールの平和構築のケースを例にとり、政治・経済の自由化と共に、セーフティーネットの導入がどのように行われ、または立ち遅れているのか、今後何が必要とされているのかという政策提言に至るまで、フィールドでの各種ステイクホルダーへのインタビューをもとに調査したいと考えている。その中でも特に、青年団体による青年層の政治面・経済面での社会への取り込みについて、1)青年団体がどのような役割を果たし、2)どのような課題を抱えているのか、そして、3)青年団体が国際社会の支援についてどのようなことを期待しており、また、4)その期待について支援側の意図とのズレはないのか、5)もしあるとすれば、そのズレはどのように調整可能なのか、といった部分を中心に一次データを収集したいと考えている。これらのデータは、青年層の失業者が多い首都ディリ、第二の都市バウカウを中心に、青年団体、団体に参加する青年たち、そして出来れば、参加しない青年たち、それに、国連開発計画や世界銀行などの国際援助機関のフィールドオフィスレベルでのプログラム担当者、国際・国内NGO、地域の行政機関などとのインタビューから収集する計画である。
東ティモールをテストケースにとったのには、理由が二つある。まず、東ティモールの復興にあたっては、国連・世銀などが世界でも例を見ないほど国造りに入り込み、国際社会主導型で平和構築が行われてきたという点である。第二に、しかし、この民主化・経済の自由化の導入は、人口の半分を占める若年・青年層の社会統合の立ち遅れにより、東ティモールで早くも破綻の兆しを見せ始めているという点である。特に、失業のため都市部に出てきた青年層が一部ギャング化し、治安が悪化するなど、既に社会の不安定化の要因になっている。このように、国造りが急務であり、国際社会主導型の民主化・自由経済導入先行型で、社会統合・セーフティーネットの導入が立ち遅れているケースとして、東ティモールを取り上げることは、非常に重要であると考える。
国連や世銀が発表している支援政策に関する資料などは大量に手に入るが、実際にそのような政策
― 主に政治・経済の自由化を機軸とした平和構築 ― が現地の人々にどのように評価され、彼らがなお何を必要としているのかについては、深く現地に入って調査分析した資料はほとんど存在しない。今後、日本の政府機関やNGOが平和構築を支援していくにあたり、現地のステイクホルダーとどのように長期的な関係を構築し、日本の援助機関がどのような立場で支援を展開していくかは、支援施策面での大きな課題となっている。この現地調査をもとに、現地の社会の自律的な社会統合の動きに沿った、側面からの息の長い援助をするには、どのようなスタンスで関わっていくのが最も望ましいのか、について一考察を提示できると考える。
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安藤友香(大阪大学大学院在籍中)
「紛争後社会における治安制度構築−東ティモールにおける生成と展開−」
本研究の目的は治安制度が東ティモールに生成し、発展していく過程を検証することを通して、国際社会による治安制度構築の有効性と限界について明らかにすることである。
紛争後地域に民主的で文民統制が徹底した治安制度を構築することは、平和の維持に不可欠な要件である。治安制度の構築が成功しなかった場合、市民生活における安全は脅かされ経済活動も破綻し、紛争再燃の危険性も高まる。同時に、国際社会にとってはテロなど国際犯罪の温床として脅威となる。平和構築の枠組みにおける治安制度構築への着目は1980年代に開発支援機関や学者の間でなされ、1990年代には積極的に実施されるようになった。例えば、治安・安全保障部門の改革を通じて現地に平和な社会を築くことを目的としたSSR(Security
Sector Reform)などのアプローチがある。SSRは治安・安全保障部門を広く支援の対象とする点において画期的な概念であるが、学術研究において平和構築における「治安」に関しては個別の治安機構を取り扱ったものが多く、包括的な枠組みで論じられることが少ない。本研究は紛争後の治安の確立について検討するために個々の治安機構を別々に論じるのではなく、治安制度を包括的に捉えてその生成、発展の長期的なプロセスを検証する必要があるとの問題意識に立つ。
東ティモールを扱う理由としては、まず、ほぼ白紙の状態から国際社会が治安制度構築に携わった事例であること、多様なアクターが支援に関わったこと、比較的新しい事例であることなどがある。また、現時点で国際社会の制度構築への大幅な関与はほぼ終了しており、国際的支援撤退後の治安制度の展開を見ることが可能である。さらに、最近になって治安が悪化し、再び国際社会による展開の可能性があり、そのような問題なども含めて、国際社会の治安制度構築の有効性を検証する上で当該地域が適していると考える。
研究の内容としては、治安を構成する主要な3部門である軍、警察、司法制度について東ティモールにおける制度構築過程と国際社会撤退後の展開を検証する。制度の生成については主に3点の課題に答える。第1に制度構築過程におけるアクターの協力形態はいかなるものであったか。第2に東ティモールの既存の治安制度がどのように統廃合されていったか。第3に政治的にセンシティブな軍創設においては国際的なレベルにおいて制度構築を巡り政治的なせめぎ合いの様相を呈す場合があるが、東ティモールの事例の場合、近隣諸国、ASEAN、国連、その他の主要な支援国の間でどのような政治的なやり取りと妥協がなされ、それがその後の制度形成にどのようなインパクトを与えたか、である。
制度の展開については、警察・軍に関しては国連の文民警察(Civilian Police: CIVPOL)と軍事部門であるPKF(Peace Keeping
Force)から治安に関する全権限が現地警察・軍に移譲された後にどのような変化があったか、また制度として有効に機能しているのかを評価し、制度の有効性あるいは制度の機能不全をもたらす要因は何かついて考察する。特に、東ティモールは今年に入り、反政府暴動が起き治安が悪化している。また、警察や司法制度についてもほぼ機能していないという指摘や、NGOなどから人権侵害の批判もなされている。紛争後の国家建設における成功例としてみなされてきた東ティモールだが、ほぼ白紙の状態から構築された治安制度の脆弱性が最近になって露呈してきており、国際社会における治安制度構築の有効性と限界を改めて問う必要に迫られている。
具体的な調査としては、東ティモールに赴き、資料収集と警察、軍、司法関係者へのインタビューを実施する。警察関係の調査では現地警察(ETPS)や、国連関係者への接触を試みる。そこから、ETPSの現状や、CIVPOLからETPSへの権限移譲の際のより詳細な過程、既存の治安制度の統廃合について明らかとする。軍関係の調査としては、東ティモール国防軍とそれを訓練する国連の支援グループ、軍の文民統制を監視するNGO関係者から聞き取り調査を行いたい。また、現地司法関係者へインタビューにより、警察機構との連動という点から制度の現状について調査する。
本研究の成果としては、軍、警察、司法といった治安に関わる重要な3分野について、構築過程からその後の展開のダイナミズムを検討することで、紛争後社会に新たに有効な制度を構築するための一つの方策を示すことが期待できる。同時に、SSRなどの治安制度構築分野の研究は発展途上にあるため、当該分野の研究の発展に貢献することを目指したい。
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古澤嘉朗(広島大学大学院科目等履修生)
「対立から対話へ:平和構築における市民社会の役割、ミンダナオの事例より」
本研究の目的は、市民社会の活動が活発なフィリピンのミンダナオという事例を通して、平和構築活動における市民社会の役割・活動についての考察を行うことである。ミンダナオの紛争の背景には歴史的に構築された政治的・経済的な要素が多分に含まれているといえる。では、ミンダナオでは市民社会はどのような活動を通して、どのようにこれらの要因に対処する平和構築活動を担ってきたのか。
本研究で注目するピキットでは民族・宗教間の対立を克服して共存、協力関係を促進する努力が行なわれ、宗教、民族間の平和的な共存の兆しがみられるという報告もある。例えば、ピキットでは軍やモロ民族解放戦線(MILF)による紛争に市民が巻き込まれないようにGinapaladtakaといったムスリム・キリスト教徒・ルマッドの3者が居住する平和地域が地元リーダーらによってつくられている。なぜピキットではこのような平和的共存の兆しがみられるのか。また、どのような活動が積み重なってピキットではこのような結果につながったのか。ミンダナオで長年活動されているバート・レイソン神父は「平和についてMILFと政府の手のみに委ねていてはいけない。軍とMILFの戦闘員間のように、ミンダナオの人々の間にもみえない戦争が続いているからである」とおっしゃられているが、上述の一連の問いに答える上で「みえない戦争(unseen wars)」という言葉が鍵になる。これらの点を踏まえた上で、本研究では地域の有力者、NGO職員、地域住民、研究者、UNDPなどの国際機関の職員から資料収集とインタビュー調査を実施する。
上述の問いの前提であり、かつ本研究の中心概念としてマルチ・トラック・アプローチが存在するが、最後に簡単に触れておきたい。マルチ・トラック・アプローチとは、国家が国家としての責任を果たすことができない・しない「疑似国家(quasi-states)」が世界の各地に点在し、そして紛争が「大衆化」されている民衆が被害者であると同時に加害者でもあるという状況下において、「平和」を現実の政策問題として扱う際には国家レベル(トラックI)だけではなく、市民社会のレベル(トラックII)、草の根レベル(トラックIII)、そして国内政治と国際政治の相互関係(トラック間の相互作用)など多くの要素を考慮した上で、社会全体で幅広く問題に対処していく必要性があるという指摘である。つまり、「国家」という統治の形態を構築すれば「平和」が達成されるという認識ではなく、人々が異なる考えを持ちつつも平和的に共存していくためには、より多くの人々がなんらかの形で建設的な貢献をすることが大切であるという指摘であるといえる。言い換えれば和平の合意を結ぶということに象徴されるような政府にしかできないことがあるように、Adam Curleが指摘する個人レベルにおける「心境の変化(change of hearts)」に象徴されるような市民社会にしかできないこともあるということである。
このような考えのもと本研究ではミンダナオ、その中でも特にピキットにおける市民社会の活動に焦点を絞り、他のトラックとの関連性にも注目しつつ、平和構築活動において市民社会がどのような役割・活動を担うことができるのかということを考察する。それはある社会に異なる集団が存在する場合、それらの集団が共存し「平和」な社会を築くために、市民社会はどのような役割・活動を担うことができるのかという問いに対してひとつの答えを示すものである。
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多田透(大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程在学中)
「複合的危機における人道支援活動の調整ーACBARとUNOCHAとの比較からー」
申請者は、アフガニスタンにおける人道支援活動の調整体、アフガン救済のための機関調整体(Agency Coordinating Body For Afghan Relief: ACBAR)と国連アフガニスタン人道支援事務所(United Nations Office for the Coordination of Humanitarian Assistance to Afghanistan :UNOCHA)について、2001年10月7日からの有志連合によるアフガニスタン侵攻以降の緊急支援に際する活動の比較を行いたい。なお、ACBARはNGO間の調整体であり、UNOCHAは国連人道システムの調整体である。
人道支援活動とは、命の危機に晒された人々をいち早く救助する活動であり、人の命に直接関わる、極めて重要な活動である。その人道支援活動の要になるのが、参加アクター間の調整である。とくに近年、人道支援活動の調整を行うことの重要性はますます高まってきている。この重要性の高まりに伴って、人道支援活動の調整に関する学術研究も一定程度、蓄積されてきている。ただし既存の研究の対象は、国連に大きく偏っている。その一方、NGOも現実には調整において重要な役割を果たしているケースが少なくない。そこで本研究ではNGOによる調整の特徴を、国連による調整のそれと比較することから検討する。
一般的に、調整が必要になるのは、参加アクター全体にとっての利益と、個々の組織の利益とが対立するからである。したがって、調整の役割も、この両者のバランスをいかに保つかにある。本研究もこの視点からACBAR とUNOCHAを比較し、これらがそうした役割を果たしたのかどうか、そしてそうした結果を生んだ理由は何なのかを明らかにする。
既に、UNOCHAの調整については評価がなされており、その中で、2001年の危機において、調整体としての役割を十分に果たせなかったことが指摘されている。これに対し、ACBARに関しては十分な評価がなされておらず、しかも公開されている文書が少ない。そこでアフガニスタンでの現地調査を行う必要がある。アフガニスタンのカブールはACBARと、UNOCHAの業務を引き継いだ国連アフガニスタン支援ミッション(United Nations Assistance Mission for Afghanistan:UNAMA)とがあるため、現地への訪問は、本研究にとって最も重要な調査活動になる。これにより、ACBARの活動を評価するための材料を収集し、UNOCHAとの比較を行う。
こうした比較を通じて、両調整体の共通点、相違点が見えてくるはずである。そして、それらの点が、国連人道システムやNGOといったアクターの性質そのものからくるものなのかどうかを検討することで、NGOの役割を探りたい。
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中内政貴(大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程)
「EU加盟コンディショナリティー効果が民族間の武力紛争予防に果たす役割
−マケドニア和平合意の締結と履行過程の調査ー」
EUは、加盟希望国に対して、民主化などの加盟条件を課すことにより改革を実施させるという影響力を有していると考えられる。そのような「EU加盟コンディショナリティー効果」が、民族間の武力紛争を予防してきたと言われることさえある。そして、2004年、2007年のEU拡大が完了した現在、次なるEU加盟を目指して改革に取り組んでいるのが、旧ユーゴスラヴィア諸国(既加盟のスロヴェニアを除く)である。しかし、旧ユーゴ諸国の加盟には、国内の民族間関係に直接影響を及ぼすような政策の実施が条件とされることもある。近い過去に民族間の武力紛争を経験した国にとって、EU加盟は、なお残る民族間の対立を乗り越えるほどの誘因になり得るのだろうか。本研究では、マケドニアの事例を用いて検証を試みる。
マケドニアでは、2001年に少数民族アルバニア人系の武装勢力と政府の間で小規模ながら武力紛争が発生し、この結果、少数民族の地位を大幅に改善する和平合意が締結された。EUはこの和平過程で仲介を行い、さらに和平合意の完全履行をマケドニアのEU加盟条件とするなど積極的な関与を行っている。本研究では、このプロセスの中で(1)和平合意締結、(2)憲法改定、(3)アルバニア人武装組織・民族解放軍(NLA)戦闘員の恩赦、(4)地方自治体再編の四つの段階に注目し、その実現に及ぼしたEU加盟コンディショナリティーの影響を抽出し検討する。これらは、いずれも少数民族の地位を改善する際の重要なステップであり、それ故に多数派民族マケドニア人の側には強い反発が存在した。このため、(a)政府がいかなる理由、認識でこれらの政策を実施し、有権者にいかなる説明を行ったのか、(b)これへの反対派の活動はどのような論拠、広がりを持ったか、(c)EUの関与はどのような形で行われ、どの程度マケドニアのEU加盟と関連付けられたのか、といった点を主要政党関係者や欧州委員会代表部へのインタビューを通して明らかにすることで、EU加盟コンディショナリティー効果を浮き彫りにすることができると考える。この他、少数民族側がこれらの政策の実現にどのように関与し評価しているか、また世論はどのように反応したかなどをインタビューや世論調査のデータによって検証する。
マケドニアに注目することは、これまで必ずしも中心的に扱われてこなかった、民族間の対立が先鋭化してしまった事例でEU加盟コンディショナリティー効果を位置付ける意義を持つ。また、EUが関与して締結・履行されてきた和平合意が実際に民族間関係にどのような影響を及ぼしているか、現場の声に触れることで、EU加盟コンディショナリティーの武力紛争予防の手段としての有効性をも考察したい。
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東島雅昌(早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程現代政治領域)
「権威主義体制下の紛争勃発メカニズム
ーカザフスタン2007年総選挙とキルギス2005年総選挙の比較を中心にー」
中央アジアの2つの権威主義体制−カザフスタンのナザルバエフ体制とキルギスのアカエフ体制−は,近年その命運を分かつこととなった.前者では, 2007年8月の総選挙で,親大統領の政党オタンが下院の全議席を掌握した.選挙期間中,与党の選挙不正が報じられたが,抗議運動はほとんど生まれず,不正な選挙でナザルバエフ体制はさらに磐石になった.他方,後者では,2005年3月の総選挙での大統領アカエフの選挙不正をきっかけに体制内エリートの離反や市民による抗議運動が活性し,「チューリップ革命」が勃発した.権威主義のもとでの選挙不正は,いかなる条件のもとで紛争や体制崩壊をもたらすのだろうか.
以上の問いに答えるべく,本研究プロジェクトでは,両国の比較事例研究をおこなう.マクロな構造や制度の点で両国は類似しているので,これらが紛争勃発の大きな要因であるとしてきた比較政治学の諸研究では,両国の対照的帰結は説明できない.また,「革命」後の秩序の不安定化によって国内情勢のみならず,国際関係がキルギス政治にとってより重要になったと考えられる.そこで,申請者が焦点を当てるのが,エリート間の利益分配と(不正)選挙の相互作用,そして「革命」後の新政府エリートと「大国」のやりとりである.
選挙に先行する体制エリート間の利益分配のあり方は,紛争を勃発させるか否かの前提条件をなす.体制内エリートで経済利益や政治ポストの分配が「公平」であれば,彼らは体制を維持するインセンティヴをもつ.他方,為政者に富やポストが集中すれば,体制内エリートは反対派エリートと「同盟」を結ぶことで体制を打倒しようとする.カザフスタンでは,カザフ人以外の民族を排除しながら,外国直接投資や貿易の果実や政治ポストをカザフ人の体制内エリート間でうまく分配する傾向にあるといえる.対照的に,キルギスでは,外国直接投資や金・農産品による貿易の果実や政治ポストの要職がアカエフとその周辺に集中する傾向にあったといえる.
この前提条件の違いが,紛争の進展(キルギス)あるいは体制の盤石化(カザフスタン)へと分岐するきっかけとなるのが,不正な選挙である.現代の権威主義体制は,国際圧力のもと選挙実施を余儀なくされているが,為政者は不正な選挙をおこなうことで支配権を保とうとする.事前の体制内エリート間での利益分配が「公平」であれば,彼らは不正選挙でかならず勝利する為政者という勝ち馬に乗る.カザフスタンの2007年選挙におけるオタンの独占的勝利は,このことを示唆する.他方,為政者に富やポストが独占されていれば,体制内エリートは選挙不正を現体制の正統性のなさの象徴として糾弾し,不満を抱く反対派エリートや市民と結びつく.アカエフ体制に不満をもつ体制内エリートが選挙をきっかけに反対派キルギス人と結びつき,市民を動員して「チューリップ革命」を起こしたのは,そのような条件下での不正な選挙がもつ機能を物語っている.
そして,「革命」後の秩序の安定化に向けて,新たな体制エリートが「大国」との関係において直面するジレンマについて考察を深める.新政府エリートは秩序再建のために「大国」の協力・援助を取り付ける必要があるが,他方,多大な介入を回避し自国の自律性を保ちたいという思惑がある.このジレンマに直面して新政府のエリートはどのように行動し秩序を安定化させようとしたのかについて,米・中・露そして中露がイニシアティヴをとる上海強力機構(SCO)の動きを踏まえながら,分析を進める.
2009年1月上旬から2月下旬にかけての約6週間,カザフスタンとキルギスで調査を実施する.まず(1)選挙前の体制内エリート間の政治ポストや経済利益の分配状況を分析できる一次資料の収集をおこなう.とりわけ両国の政治エリートの詳細を記した年次便覧は政治ポストの分配状況を把握できるので非常に有用である.次に, (2)選挙における不正の実態,それに対する各エリートの対応についての一次資料の収集とインタビューをおこなう.そして,(3)「チューリップ革命」後の秩序再建に対する「大国」とキルギスのエリートたちの対応を,ビシュケクのSCO本部など国際機関や各政府機関で資料を収集し,また適宜インタビューを実施する.
これまで両国の権威主義体制における選挙不正に関する報告は数多くなされてきたが,選挙不正と紛争勃発の因果関係の解明はなされてこなかった.他方,政治学者の体制崩壊と紛争勃発に関する一般理論は,因果関係を分析していたが,マクロ構造・制度のみに着目して説明するものが大半で,エリート間関係と制度(選挙)の相互作用を等閑視してきた.申請者は,対照的帰結の生じた両国の綿密な現地調査をつうじて,アクターと制度のつながりを検討し,権威主義体制における紛争勃発メカニズムを明らかにする.また,本研究プロジェクトは中央アジアという安全保障の要衝が不安定化したとき,「大国」がどう対応し,「小国」がそれをいかに受容し牽制したのかについて,ひとつの事例を提供する
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山本哲史(東京大学総合文化研究科リサーチフェロー[非常勤])
「難民に対する国境封鎖に関する研究
−マケドニアにおけるコソボ難民の処遇と国際法の役割を中心にー」
本研究テーマは、国際法学における難民研究の中の主要論点の一つであるノン・ルフルマン原則に関するものである。ノン・ルフルマン原則に違反したとされる1999年前後のマケドニアの状況を事例として、ノン・ルフルマン原則の確保のための実体的諸条件を探ることを試みる。
ノン・ルフルマン原則とは、大まかに言えば、難民を危険な領域へ送還することを禁ずる国際法の原則のことである。その歴史は比較的浅く、1933年、1936年、および、1938年の各種難民に関する条約において萌芽的に規定され、1946年には第二次世界大戦後の欧州諸国における難民問題の解決のための国際機関の基本文書にも規定されている。今日では1951年の難民の地位に関する条約およびその1967年の議定書においても規定され、その内容について留保が付されることなく、140カ国以上の国々が認める難民保護の中核的地位を確立した原則である。
このような確立した原則も、しかしそれが現実にどのように意識され、遵守されているのか、という点については明確ではない。まず、その文言上の曖昧さに起因する問題群がある。例えば1951年の難民条約33条1項において、「締約国は、難民を、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のためにその生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還してはならない」と規定されているが、この原則は「難民」として認められた者についてのみ適用されるのか否かという問題がある。このことは、国境を封鎖することによって入国を拒否した人々についてノン・ルフルマン原則との関係を考えるとき、重要な論点となる。また、ノン・ルフルマン原則の対象とする状況を、少数の難民が個別に流入する場合と、大規模な難民が一斉に押し寄せる場合とに大きく二分し、それぞれの状況について一定の差異を前提に考慮することも議論されている。その他、難民に関する条約以外の人権諸条約においても、ノン・ルフルマン原則に関連する規定があり、それらとの関係についても検討の必要がある。
他方で、法の規定する内容が明確であるか否かという問題とは別に、その法が現実的に適用可能であるか否かに関わる諸条件が不明である点が、ノン・ルフルマン原則については問題である。すなわち、国境において入国を望んでいる人々を追い返すことを、ある種の不可抗力によって行う国があるとすれば、そのような追い返しさえも禁止する法は現実的ではない。この点、例えば1951年の難民条約33条2項は「締約国にいる難民であって、当該締約国の安全にとって危険であると認めるに足る相当な理由があるもの又は特に重大な犯罪について有罪の判決が確定し当該締約国の社会にとって危険な存在となったものは、1の規定による利益の享受を要求することができない」と規定しており、ここに言う「当該締約国の安全」を誰がどのように判断することがありうるのかについて、先例研究に基づいた分析と整理が加えられる必要があろう。
以上のような問題意識から、本研究は、マケドニアおよび関連する周辺諸国・地域において難民保護や援助に携わる関係者に対するインタビューを含めた資料収集を行い、一事例を集中的に分析することで、難民流入に直面する国のノン・ルフルマン原則に対する意識と、その確保のための諸策や検討事項について分析し、ノン・ルフルマン原則確保のための諸条件を明らかにすることを試みるものである。
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窪田悠一(ニューヨーク州立大学アルバニー校博士課程)
「内戦における戦闘員のリクルートメントと個人の紛争参加
−カンボジア除隊兵士に対するインタビュー調査-」
本研究の目的は内戦下においてなぜ人はしばしば戦闘員として紛争に参加するというリスクを伴うような行動を選ぶのかをカンボジア内戦をその事例として明らかにすることである。
カンボジア内戦において戦闘員として紛争に参加した個人に対して生じた影響は測り知れないものがあった。たとえば、2001年に除隊兵士1万5千人に対して行われた健康調査では、肢体切断による身体障害や慢性疾患による健康被害を受けたものが約6割おり、マラリアや肺結核の感染症や眼疾患や精神疾患の罹患率もかなり高いことがわかっている。
また集合行為論が主張するように、彼らがたとえ紛争参加を通して政治改革や経済状況の改善などを目指していたとしても、それらが公共財である限り各個人は自らのリスクを冒さずにフリーライダーとしてそれらが他の集合行為への参加者によってもたらされるのを傍観することもできたはずである。しかしながら、実際には1992年時点において紛争4派併せて約20万人の正規軍と25万人もの民兵が存在したといわれている。それではなぜかくも多数の人々が戦闘員として紛争にかかわっていたのであろうか。
個人の紛争参加を分析するにあたって、彼らの支持をとりつけ動員しようとする政府と反政府勢力との競合関係は特に重要である。彼らは支配地域またはそれ以外において住民をコントロールし兵士として動員するために(反対勢力の政治リーダー、戦闘員や協力者などに対する)選択的あるいは(すべての住民を対象にした)無差別的な暴力行使と社会経済状況の改善などの融和的な手段を使い分けてきた。筆者はこの政府−反政府勢力間の住民への政策が個人の紛争参加に大きな影響を及ぼし、その結果は彼らがいかなる政治社会環境におかれているかによって異なると考える。
現地調査はこのような問題意識に従いカンボジアにおいて実際に戦闘員として紛争に参加した人々にその理由や当時の状況を尋ねることをその目的の主眼とする。具体的には2000年より開始された一連のDDRプロジェクトにより動員解除された除隊兵士を調査の対象とする。具体的に彼らに対する聴き取り調査では、事前に用意した質問票をもとに紛争参加を可能にした(1)動機、および(2)構造的要因について質問する。既述のように紛争に戦闘員として参加することはしばしば多大なコストを伴うが、カンボジア内戦においては集合行為問題を克服する要因が明らかに存在したという点で両者は密接に関連している。たとえば、コミュニティ内の紛争参加に対する圧力やそれを拒んだ際に生じる処罰への恐れといった動機は当該地域の社会の凝集性やそこにおける支配勢力の統治状況によるし、金銭的・物質的な報酬によるインセンティブは政府あるいは反政府勢力の経済的能力に左右される。そして何よりもこうした構造的要因を個人がどう判断していたかが彼らの行動を分析する上で最も重要である。
本プロジェクトの対象地域は内戦時における政治社会状況に関して対比をなすバッタンバンとタケオの2州である。まずバッタンバン州は内戦終了時においてポル・ポト派やシアヌーク派を含む反政府勢力の支配地域であった。それに対しタケオ州は当時の政府であるカンボジア人民党が徴兵を行った地域であった。したがってこれら2州は兵士動員の形態およびその支配勢力において対比が可能なため、比較研究の事例として最適と考える。
こうした戦闘員の内戦への参加に関する体系的な研究は国内はもとより欧米の学界においても非常に限られている。しかしながら、本研究は個人のレベルにおいて彼らの主体的判断に基づいた紛争行動の分析を試みるという方法論的立場に立つため、マクロレベルからの紛争研究では捉えることのできない多様な側面に光を当てることができ、また内戦の直接的な原因である武装勢力の組織化と戦闘員の動員といった重要な問いに答えることができるという点で学術的に非常に意義があると考える。
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クロス京子(神戸大学大学院法学研究科博士後期課程在学)
「移行期正義(transitional justice)におけるローカルな規範・制度の導入メカニズム
―東ティモールのコミュニティ和解プロセス(CRP)の事例からー」
本調査・研究プロジェクトの目的は、東ティモールの事例を通して、紛争後に導入される「移行期正義」のプログラムに、現地の文化的基盤に依拠する「非公式な正義システム」がどのように正式に採用されるのか、そのプロセスを明らかにすることである。
紛争や抑圧的体制の終結後、過去の大規模な人権侵害や犯罪行為を清算する「移行期正義」は、「正義」追求と秩序優先の「平和」選択の間で揺れ動いてきた。しかし、今日では人権規範の確立と近年の紛争の質的変化を背景に、「処罰か免責か」という二者択一的な選択ではなく、人権や平和構築など、包括的な視点に立つ「正義」追求の制度や手法が複数に組み合わせて実施されるようになってきている。伝統的な価値や規範、地域に固有な信条や制度に基づく紛争解決法が取り入れられるようになったのも、この「移行期正義」の発達の一環である。このようなローカルな非公式正義システムは、外部からの押し付けではない内的な和平推進力として機能すると考えられる。しかし他方で、時に相容れないローカルとグローバルな規範や制度が複合的に用いられるようになったことで、規範や制度間の調整がどのように行われるかという問題が生じている。
そこで、本研究では上記の問題意識に立ち、東ティモールの「移行期正義」のプログラムに採用された伝統的紛争解決法であるnahe bitiniに基づくCRP(コミュニティ和解プロセス)の導入過程と制度デザイン形成過程を明らかにする。東ティモールでは、24年におよぶインドネシア支配下で行われた住民への人権侵害に加えて、1999年の住民投票後に起こった統合派民兵による大規模な暴力行為が、UNTAET(国連東ティモール暫定行政機構)によって、国際法上の犯罪を管轄事項とする混合法廷である重大犯罪パネルと、比較的軽度な犯罪を取り扱う国内裁判所、真実究明と被害者救済を目的とする受容真実和解委員会で取り扱われた。ローカルな非公式正義システムに基づくCRPは、重大犯罪パネルの対象犯罪とならない軽犯罪を犯した元統合派民兵や住民を社会に再統合するための「和解」を主要な目的とし、受容真実和解委員会の一部門として設置されている。東ティモールの事例では、国内の政府がまだ機能していない国連の暫定統治の下で「移行期正義」の制度デザインが行われ、実施されたことから、その導入過程を追跡することで、国際機関やNGO関係者など平和構築を担う国際レベルで非公式正義システムに対する認識がどのようなものであったか分析できると考えられる。また、CRPは地域の長老たちや教会関係者の提言がきっかけになって導入が検討されるようになり、実際に制度デザインにあたっては国内各地で公聴会やワークショップが開かれ、地域住民が積極的に関わっている。このことから、東ティモールのCRP設置過程を追跡することで、国内レベルの働きかけがどのように国際レベルの規範や制度構築に連動したのかも考察できるものと思われる。
具体的な調査としては、東ティモールに赴き、国連機関やNGOの関係者による報告書や論文など資料収集に努めるとともに、実際のCRPの制度デザインに携わった関係者への聞き取り調査を行う。聞き取り調査の対象としては、国内レベルの関係者として、現地人権NGO、教会関係者、元政治犯や政党組織を念頭においている。国際レベルでは、UNTAETやUNHCRなど国際機関、受容真実和解委員会の関係者、さらに国際機関や国際NGOの委託によって現地調査を行った文化人類学者も聞き取り調査の対象として検討している。また可能な範囲で、CRPが実施された村に赴き、住民に聞き取り調査も行いたいと考えている。
本研究の成果としては、従来の国際レベルから国内レベルに規範が伝播・受容されていくという国際関係論の主流な研究に対して、一律的な西洋的司法制度だけではなく、ローカルな非公式正義システムを用いようとする試みから推測されるように、「移行期正義」の分野において規範やアイディアの伝播が国際・国内からの双方向で行われていることを実証できるものと考えている。また、上記のような学術的な意義に加え、今後の国際的な関与による平和構築支援において、「移行期正義」にどのように現地制度や実行を採用すべきかについて考察する一つの材料を提供できるものと期待する。本研究によってどのような制度デザインが移行途上の社会に有効であるのか検討を試みたい。
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久保珠美 (東京外国語大学大学院博士後期課程在籍)
[タイ−ビルマ国境地域の難民キャンプに見る『人間の安全保障』
−安全共同体としての国家と少数民族の紛争の狭間に生きる人々−」
1. 目的・アプローチ・対象
本調査研究は、「人間の安全保障」という概念が難民という文脈で持つ歴史的経緯とその実現手段としての「上からの保護」と「下からのエンパワーメント」が持つ現実的意味・インパクトを抽出することを目的とする。調査のアプローチは2つあるが、第1は、オーラルヒストリー手法であり、史実あるいはこちらから一方的に持ち込んだ分析枠組みから掘り下げて行くのではなく、生の体験を聞き取ることによって、難民が持つ「紛争や歴史に関する内なる認識・意識」を発掘するものである。第2は、各種のマクロ・データ、情報、難民政策、実際の支援活動の枠組み・内容を捉えるアプローチ、すなわち総論と(聞き取り調査以外の)各論を構成し、難民問題の「背景状況」を描き出す。主たる調査対象は、タイ−ビルマ国境地帯に所在するキャンプ内外に居住し、ビルマ人向け医療機関で受診し、ビルマ人僧侶による説法会等に集う難民のほか、政府・民間の難民支援団体・諸機関の職員等であるが、可能な範囲でキャンプ周辺地域住民、ビルマからの移住労働者、越境者、国境定住者等も含める。
2. 調査対象地点の状況
本調査研究は、国家も含めて対立・紛争する諸勢力を「安全共同体」と捉え、1962年に議会制民主主義から社会主義に移行したビルマの状況を安全共同体間の紛争が国家に対する諸エスニック集団の蜂起という形で展開するものと見做す。最大のカレン族およびカレニー族は、タイ−ビルマ国境沿いで分離独立闘争を継続的に展開しているが、他方でビルマからタイへと国境を越えて逃れる難民の大量発生をもたらしている。タイ領西部の地域7ヶ所の難民キャンプには、主にカレン族、北西部のメーホンソーン県2ヶ所にはカレニー族が難民として仮滞在しているが、タイ政府が人道的観点からの庇護は与えつつも、「偽装難民」、「移住労働者」との立場からの強制送還等を行い、アムネスティやヒューマン・ライツ・ウォッチ等の非政府組織(NGO)や国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から非難され、国際的圧力を招来する等、多様なアクターの行動・関与が複雑に絡み合う様相を呈している。
一方、「人間の安全保障」概念に基づく支援は、「上からの保護」と「下からのエンパワーメント」を掲げているが、難民キャンプでも、それらが実態として展開している。一時的措置としての庇護が提供され、第三国定住への準備、将来実現するかも知れないタイ社会への参入(例えばNGOの働き掛け等によって、タイの公立学校による移住労働者の子女の就学受け入れも、実態的に始まっている)・本国帰還の可能性を見据えて、NGOを中心とする難民の自立化に向けた各種教育・職業訓練と文化的アイデンティティ保持のための活動等を含めた保護とエンパワーメントが行われつつある。
3. 調査の成果
第1は、1984年以降に祖国ビルマからタイ側に逃れてきたビルマ難民、すなわち政府に自治権を求めてきたが認められず、武力紛争へと突入した安全共同体としての少数民族(カレン、シャン、モンといった人々)が語る彼らに対する人権弾圧や強制労働とそこから逃れてきた難民としての歴史認識の解明である。
第2は、自立に向けた住民組織化と援助の受け皿組織(キャンプ委員会)の機能の実態と、これに関わる外部の諸支援主体との相互関係を通してみる「保護」と「エンパワーメント」という人間の安全保障の実相とその効果の把握である。キャンプ内の運営は難民によって選出されたキャンプ委員会が自主的に行っており、食糧配給、保健・医療、職業訓練を含む教育等の小委員会を持ち、援助の受け皿として機能している。他方、キャンプ自体は、タイ内務省、県庁、郡庁、森林庁といった行政組織とタイ陸軍の監督下に置かれ、UNHCRが難民保護を担当し、NGOは衣食住から学校教育、保健・医療に至るまでの援助活動を実施している。
第3は、難民の民族的アイデンティティの維持・喪失の相克と人間の安全保障との関係、およびそれに関する難民の意識の解明である。その1つは、第三国定住がもたらすビルマ難民の個々人が持つ将来展開の可能性の飛躍的拡大と、それとトレード・オフになる民族的アイデンティティの喪失に関するもの。2つ目は、タイ社会への同化がもたらす民族的アイデンティティの変質。キャンプ内の高齢者活動では、カレン族の民話や詩の記録・収集が行われ、それらを出版してカレン文化の保存・継承につなげようとの努力がなされ、伝統舞踊・伝統楽器教室等も開催され、民族的アイデンティティの希薄化を防ごうとしている。他方、タイ社会への参入・同化の契機が見え始めている子供や若者はタイ語を学び、関係組織の連携の下でタイの公立学校への就学や職業訓練校との関係が形成され始めている。難民という文脈での人間の安全保障アプローチに内在する反対方向のベクトルが難民コミュニティにもたらす影響を解明する。
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