グレアム・アリソン(秋山信将、戸崎洋史、堀部純子訳)
『核テロ―今ここにある恐怖のシナリオ』
日本経済新聞社、2006年4月刊(2200円+税)
(評者)下山高正


 北朝鮮の核実験により、核の脅威への関心があらためて高まっている。だが、核の脅威には、実はいくつかの種類があり、 どれが重視されるかは時代や国によって異なる。
 冷戦期には、核の脅威の中核は、核保有国間の核戦争の恐怖であった。それに付随して、「核のボタンに手をかける」国の数の増加への不安(核拡散問題)が存在した。
 冷戦の終結により、核戦争の蓋然性がほぼ消失すると、代わって関心を集めたのは核拡散であった。元来想定された拡散シナリオは、原子力平和利用を進める不特定の先進国による、技術や施設の軍事転用であったが、冷戦後には、少数の特定国(大半は「ならず者国家」的な非先進国)の核兵器開発が、懸念の主な対象となった。これに伴い、旧ソ連等の「ルース・ニューク」(管理のずさんな核兵器や核物質)の流出への懸念も高まった。
 9・11テロは、こうした流れをさらに強めた。テロ集団や「ならず者国家」による核使用の恐怖は、特に米国人にとっては、現実味を帯びたものになった。核兵器よりもはるかに入手が容易な「ダーティー・ボム」(通常の火薬等で放射性物質を散布する爆弾)を使ったテロや、原子力施設への破壊活動の可能性も、深刻に論じられるようになった。そのため、ルース・ニュークの問題にも、従来以上の関心が向けられるようになった。
 このように、核の脅威の性格は近年大きく変化しており、米国ではそうした認識が特に強い。これは、今回の北朝鮮の核実験への米国の対応をみる上でも、重要なポイントである。ところが日本では、この変化への認識が薄い。核問題研究の世界的権威の手になる本書は、この知的欠落を補うための、最良の文献
である。
 第1部「核テロ攻撃は避けられないものなのか?」は、核テロの実行主体、あり得る攻撃の種類、核兵器や核物質の入手先、製造方法、米国への運搬方法等について、詳細なデータを挙げて描写している。そして、現在における核の脅威が、米国の眼にはいかなるものに映っているのかを明快に描き出している。著者は、「今の道を進むならば、核テロは避けられない」(246頁)が、「われわれが今行動を起こせば未然に防ぐことが可能」(147頁)であるとみる。そして、第2部「核テロ攻撃はどうすれば防げるのか?」で、米国による「対核テロ戦争」を提唱する。それは、具体的には、(1)ルース・ニュークを許さない、(2)国による核分裂性物質生産能力の新規獲得を許さない、(3)新規核兵器保有国を許さない、の「3つのノー」を貫く世界を実現するために、核テロ防止を国家の最優先課題とすること、対核テロのグローバル同盟の構築、情報能力の強化、ダーティー・ボムへの対処等を含む、「7つのイエス」の政策を進めることを指す。著者は、ブッシュ政権は、9・11後、核テロの脅威を認識したものの、包括的な対核テロ戦略を策定してこなかったと批判する。特に、本来対核テロ戦争に充当すべき資源をイラクに投じたことは決定的な誤りであり、北朝鮮、イラン、アルカイダ等に時間かせぎを許したと手厳しい。
 著者は、ブッシュ政権の安全保障政策にはきわめて批判的である。だが本書は、同政権が核の脅威をどうみているのかを理解する上でも大いに参考になる。北朝鮮の核開発に関し、近年ブッシュ政権は、北が核を流出させるならば、決して容認しないとの姿勢を鮮明にしてきた。他方、北が核保有を公言し、核実験まで行っても、軍事的懲罰の姿勢は見せず、六カ国協議の再開に同意した。これは、同政権が、北朝鮮の核そのものよりも、北の核が流出して対米テロの道具になることを、より懸念している証左に他ならない。
 本書は、核問題を学ぶ者だけではなく、日本の安全保障を考える者全てにとり必読である。ただし、その政策提言には看過できない問題もある。3点だけ指摘しておきたい。
 まず、今回の北朝鮮の核実験により、著者の「3つのノー」の一つは、崩壊の瀬戸際にある。本書は随所で、「3つのノー」を無視する国には、米国が軍事力を含むムチを行使する用意が必要であると説き、北が核開発を強行すれば、「北朝鮮の核施設を精密爆撃攻撃で破壊」(204頁)しなければならないと示唆する。だが、北の核実験後、11月1日の時点までの米国の反応は、明らかにこうした提言に反する。著者は、これをどうみるのか。
 また、本書の対核テロ戦争の構想が「間違いなくアメリカ政府の能力の範囲内である」(245頁)との著者の評価は、楽観的過ぎないかとの疑問が拭えない。あらゆる核兵器・核物質の流出を防ぎ、米国への持ち込みも防ぐことは、人間の能力の範囲内の目標だと言えるであろうか。核拡散さえ防止できない人類に、果たして核テロが防止できるのか。
 最後に、本書は、核テロを行う恐れのある集団への対処方法を提唱するにとどまり、そもそもなぜそのような集団が出現してくるのかという問いかけを、一切行っていない。そのため、テロの根本要因を緩和、除去するための提案は、全くみられない。核テロの危険が現に存在する以上、首謀者を生け捕り、あるいは殺害し、組織を抹殺するための対テロ戦争は、確かに必要である。しかし、それが一段落した後には、現在の世界秩序の問題点を可能な限り改善し、テロの動機をできるだけ除去する努力も不可欠なはずである。米国の代表的リベラル知識人の手になる本書にさえ、そのような発想が全く出てこないのは、9・11後の米国国民が、極度に緊張した特異な精神状態から依然として脱し得ていないことを示すものなのかもしれない。この点に、評者は、いささかならぬ衝撃を覚えた。


杉田弘毅
『検証 非核の選択―核の現場を追う』
岩波書店、2005年12月刊(2600円+税)
(評者)下山高正

 冷戦後の日本の安全保障政策は、変化を中心に語られることが多い。だが、実は、伝統的な政策を変更する努力と、その根幹をできるだけ変えない努力という、両立困難な作業が並行的に進んできたことが、その最大の特徴なのだと思う。日本人には、国際環境の激変が安全保障路線の修正を不可避にしたという認識とともに、専守防衛や非核政策といった、従来の平和主義の基本精神は極力維持したいとの願望も強かったのである。
 とりわけ変化がないのは非核政策であろう。冷戦後、北朝鮮の核開発の深刻化に伴い、海外では、北が核を持てば日本の核武装も必至との見解がたびたび表明された。98年の印パの核実験は、新規核保有国への国際社会の反応の手ぬるさを示した。そして05年2月、北朝鮮は、ついに核保有を宣言した。にもかかわらず、日本の行動は、リアリストを中心とする国際政治の「常識」に反し続けている。政府に非核政策を見直す兆しはなく、国民の間でも核武装への支持は低い。なぜ日本は、非核の道を選び続けるのか。
 実は、日本の「非核の選択」の起源や展開の検証は、これまではごく不十分であった。たとえば、非核三原則の成立過程や、「核防条約」参加をめぐる論争を扱った文献は少なく、その全体像を描き出したものは皆無に等しかった。近年、国際政治学における構成主義の流行ともあいまって、大国日本の非核政策には、国際的関心が向けられている。その中で、日本でのこの問題への低関心は、まことに奇妙であった。
 本書を手にして、評者は、この空白を埋める第一歩たり得るのではないかとの期待を抱いた。公平のために述べると、実は、本書が扱うのは日本だけではない。「日本の非核の選択や世界の核拡散の攻防を追い核を保有した国、放棄した国のそれぞれの深層を知る」ことで、「核拡散の処方箋」を見つけ、国家が「核を持とうとする原動力」を実証することが、著者の執筆動機だという(3、243頁)。にもかかわらず、評者がそう期待したのは、本書が、全6章中3章を日本にあて、はっきりと日本中心の構成をとっているためである。
 第1章「広島で生まれた核の国際管理」で、著者は、戦時中の日本の原爆研究や、占領下での原子力研究復活の経緯を略述する。第2章「『次の保有国』日本の選択」では、50年代からNPT加盟までの日本での核武装研究が紹介され、日本の非核政策は、米国の核の傘、国内法や国際協定(原子力基本法、日米原子力協定)、国民の反核感情等を主因としたとの結論が示される。第6章「非核大国日本の指針」は、非核兵器国としてプルトニウム利用を進める日本の苦悩や、近年の日本核武装論と国民の反核感情の持続性等を説明する。
 日本に関するこれら諸章に加え、第3章「決断・核の選択」は、米ソ英仏中や印パ、イスラエルが核保有を決めた事情を記述している。第4章「決断・核の放棄」は、南アフリカ、西独、ブラジル、アルゼンチン、スイス、スウェーデンなどが核オプションを放棄した理由や、韓国や台湾での核武装問題のくすぶりを描いている。さらに第5章「NPTを超えて」では、北朝鮮の核開発などにより明白になったNPTの限界と、米国の拡散防止構想(PSI)をはじめとする近年の核拡散防止強化の試みが紹介される。以上3章での検討を通じて、安全保障上の脅威の消失、民主化、国際社会による経済支援、他の手段による国際的地位の向上の4つが、核保有断念の鍵であることなどが主張される。
 本書は、日本を中核に、多くの国の核・非核の選択を幅広く取り扱っているため、日本の非核政策に関心を持つ者や、核拡散問題を国際法ではなく安全保障の角度から学ぼうとする者が、問題の全体像を掌握するために大いに有用である。日本の非核政策の経緯とそれをめぐる論争について、多くの当事者へのインタビューを含め、これだけの量の情報を含んだ文献は少ない。その意味で、評者の期待は、相当程度満たされたと思う。
 しかし、本書は、テーマの多様さに比べてコンパクトにすぎるとの印象が否めない。そのためか、日本の非核政策の展開に関し、いくつかの重要事項がとり上げられていない。たとえば、日本の「非核の選択」に関する最大の疑問は、NPTの批准までに何が議論されたのかという点にある。本書は、「民主主義研究会」の報告書や、外務省内でまとめられた「わが国の外交政策大綱」が、日本の核武装の効用を否定したことなどを興味深く紹介している。しかし、NPT加盟に関する論争の内容や、当時の核武装論の詳細、政府内での議論などについては、ほとんど記述を欠く。当時日本では、経済的・技術的な立ち遅れへの懸念から、核武装は得策とは考えないが核オプションの放棄には反対する立場が有力だったことも知られているが、この点に関する言及もない。
 その他諸国についての記述にも、重要な視点が示されながら、議論が不十分な箇所が散見されるのは惜しまれる。たとえば、著者は、西独と日本の核放棄には、1)経済大国で核による威信は不要、2)米国の核の傘、3)国民が核武装を不支持、等の類似点と、a.西独はNATOの一員として「核戦争遂行国」、b.今のドイツには独自核武装論がない、等の相違点があるという。だが、読者としては、もう一歩踏み込み、こうした類似や相違がいかなる政策上の違いをもたらしたのかを論じてほしかった。また、非核の道を選んだ諸国に関し、核武装の軍事的効用の分析が少ないことも、いささか気になった。
 このような問題点はあるにせよ、本書は、日本の非核政策や国家の核保有決断の問題に関心を持つ者にとって、格好の手引きとなるであろう。


土佐弘之
『 アナーキカル・ガヴァナンス―批判的国際関係論の新展開』
お茶の水書房、2006年9月刊(2800円+税)
(評者)湯浅剛

 アメリカを「帝国」と表現して、その行動や現代の国際政治を理解しようとする議論によく出会う。そのさい、「帝国」とは何を意味しているのか。「帝国」論の背景に、いかなる国際秩序の変化を感じ取ろうとしているのか。本書は、このような疑問にヒントを与えてくれるかもしれない。著者の前著『安全保障という逆説』を含め、類書は多いが、古今の思索を噛み砕いたうえでコンパクトに論じている書物として貴重だと思う。
 「序」によれば、表題は正確には「アナーキカルなグローバル・ガヴァナンス」というのだそうだ。ヘドリー・ブルの「アナーキカル・ソサイエティ」論つまり、「国家によって構成される一定の秩序をもったソサイエティ」たる国際社会についても、さらに進んで、国際機構やNGOを含めた多様なアクターによる「政府なき統治」たる「グローバル・ガヴァナンス」の議論も、包摂しようとしているのである。
 この問題意識からすれば、主権国家のあり方や、それらによって構成されているとされる国際関係(主権国家体系)という認識にメスが入るのは当然のことである。筆者ならではのメスさばきによる腑分けは、現代世界の一つの見取り図を提供してくれる。
 議論は、ユーラシアで起きている出来事と無関係ではない。本書では、アフガニスタンやチェチェン共和国の事例を指し「暴力のグローバリゼーション」「世界内戦化」と呼ぶ(筆者によれば「世界内戦」は主権国家の変容やその延長線上にある「主権の単数形化」ないしは「帝国」化と密接に絡んでいる)。本書で得られた世界の解剖図は、地域のさまざまな事象を考えるための手がかりとなるだろう。